人物相関図(昭和63年〜平成元年)

ここで少々当時の周辺環境を列記していこうと思う。
高塚さのりの周囲には高瀬遙やりんごの他に種々雑多な人物達が出入りしていた。
漫画家のさだ・こーじや斉藤苑子結城らんな等もそのうちである。一時期は同人作家・佐藤明機氏なども出入りしていた。
僕とほぼ同時期にこのグループに紛れ込んできた中に「ほっぴー」と渾名される人物がいた。
彼は砂倉そーいち氏の住み込みアシをしていて、本当のペンネームを明日香景介と言った。現在はゲームキャラクターデザイナーをしている。
砂倉そーいち氏は、かつて藤島康介氏と共に初期の江川達也氏のアシスタントをしていた人物。
砂倉氏の住む江古田のマンションには別の階に一時期青山剛昌がいた。

その江古田に下宿していた大学SF研の同期がアルバイトをしていたスナックの、常連客だったのが漫画家の山田貴敏氏。彼の飲み友達として、ソウル五輪で金メダルを獲得したレスリングの小林孝至氏がよく顔を出していた。同期の友人からの口添えで、両者とも顔見知りになり、幾度かそのスナックで同席させてもらった。ちょうど小林氏がソウルから凱旋したころ。金メダルも見せてもらった。営業の仕事なのでいつも持ち歩いている、という小林さんに「失くさないようにしてくださいね」と言っていた。
直後、小林氏は「金メダルを落とした男」として全国的なニュースになる。
僕は彼らに「こんどデビューするエロ漫画家です」と自己紹介していた記憶があるので、大体その頃のことだろう。

「ほっぴー」のバイク仲間が先述した「おぐ・ぼっくえ」。彼もまた「チャンプロード」などで連載を持ったこともあるれっきとしたプロ漫画家。互いに仕事を手伝い合ったこともある。正直、あのRAMRAコミティア以来、僕にとっては羨望の対象でもあった。
彼の居候するMEEくんの仕事場はさながら「エロ漫画家梁山泊」といった雰囲気だった。
後に人気作家となるえのあきら氏や神塚ときお氏、そうま竜也氏などが日々入り浸っていた。

早瀬たくみいぶきのぶたかと。女流作家ふたりはたくさんの猫と同居していた。

あの頃、高塚・砂倉(ほっぴー)・MEE(おぐ)、といった家をぐるぐる回るのが僕の日常だった。

そこに西崎まりのの五反田が加わっていくことになる。
まりのさんの家は「五反田雀荘」と揶揄されていた。それほど麻雀三昧だったのだ。
その後杏東ぢーながゼネラルプロダクツ(GAINAX)に就職し、会社のあった吉祥寺にもよく通ったものだった。ちょうど「おたくのビデオ」を作っていた頃。あれには当時の知り合いが沢山出演している。



前述のとおりに森林林檎は大学卒業後に就職。人気絶頂にありながら漫画家を廃業した。
高瀬遙はプロにはならず、やはり就職していった。
高塚さのりは僕のアシを勤めた後、現在司書房コミックドルフィン」目次ページで四コマを連載している。
GAINAXを経た杏東ぢーなは今はフリーのライター・編集者。雷門風太の名でデザインも引き受けつつYOUNG KINGアワーズなどに入り込んでいる。
大竹(仮名)氏は編集者としても優れたアンソロジー本等を残しながら月刊少年マガジンでもデビュー。近年では野々村秀樹氏のアシなどを勤め、野々村氏のキャラクター「まりんちゃん」の等身大ドールなどの製作にも携わっている。たまたま僕がトークイベントを開催した折に久々に再会。ゲストとして出演してもらった。僕が理科大の学園祭で「サザエさん」を観てから、18年の時が過ぎていた。
山下友美とはあれ以降会ってはいない。様々なことがあり一時期は筆を折る決意をしたこともあったようだが、今も漫画家を続けている。僕にとっては今も負けたくはない相手である。
岩田次夫氏とは以後も細々とながらつきあいが続いたが、平成16年に逝去。享年50歳だった。

(プロローグ・終わり)

コミックラム(その2)

「コミックラム」を発行する司書房は水道橋にあり、僕の通う神田の大学からは歩いてすぐの距離だった。りんごの手伝いをするうち、知らず知らずのうちに僕もこの編集部によく足を運ぶようになっていった。きっかけはりんごの単行本の手伝いで2日ほど編集部にカンヅメになったことだった。その前から合わせておよそ一週間、ひたすらトーンを削りつづけていたら、終いには見るのものすべてに60線のアミトーンがかかって目に映るほどになってしまい、2日くらい直らなかった。
やがて当時毎日のように一緒に遊び歩くほど仲が良かった高塚さのりと、半ば溜まり場としてしまうくらいによく司書房に通った。

そんな日々を送るうち、「ラム」の山田編集長が僕に「そのうちネーム描いて持ってきてよ」と声をかける。山田さんにすればりんごのところでアシをしていた僕も漫画くらい描けるのだろう、という程度だったのだろう。
前述したとおり、エロ漫画雑誌業界はちょうど黎明期で、新創刊ラッシュの続く各編集部は必死で描き手を捜していた。
僕は山田編集長に「いま作っている同人誌の作業が終わったら、ネームを持ってきます」と約束した。
季節は初夏を迎えていた。

ラム本に続いて僕は『十月革命Ⅱ』を制作する。今度は「オレンジロード」のパロディ。制作にあたり前作以上に本としての構成やデザインを重視した。
後にこたつねこ(現・たつねこ)を看板作家に据えたサークル「こたつ屋」の当時の代表だったMORON氏にお会いした折「大竹(仮名)さんから、浦島さんみたいなちゃんとしたデザインの本を作れって言われてるんですよ」と言われたことがあった。当時飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長をしていたサークルの代表でもあったMORON氏や、あの大竹さんが自分の本を見てくれていたことに驚くと同時に自信を深めた。
十月革命Ⅱ』は夏コミにてリリースされた。

約束どおり、コミケの直後僕はネームを司書房へ持参する。一見した後、山田さんの口から出た言葉は
「じゃあ、これ原稿にして来て」だった。
拍子抜けした。何回かは手直しを求められるのかなァとか思っていたからだ。

後になって、山田さんは原稿を眺めて「あ、こーいうお話だったんだぁ。初めて知った」と平然と言ってのける人物だということを知るのだが。

8月に描いたネームは9月に原稿アップ。10月には「コミックラム」第8号に掲載された。あまりにもあっさりと僕はプロデビューをしてしまったのだった。
正直、プロになるべく計画と戦略を練ってはきたつもりだったが、デビューは僕の想像を超えて簡単に叶ってしまった。
りんごのアシを始めてほぼ一年。僕が「いからちの会」を辞めてから、一年半も経ってはいなかった。
作品名「STAIR-GOBLIN」。12頁。これが浦島礼仁の公式記録となった。

その翌月。「花とゆめ」に新人賞の準入選作が掲載される。作者名は山下友美だった。
僕のデビューは山下の入選に伴い「いからち」では黙殺された。
祝福してくれたのは、高塚やりんご達だった。特にりんごは僕が家を出て仕事場を持つとき
「どうせ単行本が出ればすぐ返せるだろ?」と云って、ポン、と30万円を貸してくれた。今も感謝している。
あの当時のエロ漫画界は、一年原稿を描いていればすぐに単行本が一冊出て印税が100万円入ってくるような状況だったのだ。バブルも伴い、それほど景気は右肩上がりだった。
森林林檎は、就職と共にあっさりと漫画家としての生活を辞めてしまった。
じつはりんごは某大手ゲーム会社の内定が決まっていたものの留年、フイになった経緯がある。結局翌年ソフト会社へ就職するが、あのときそのゲーム会社に勤めていたらどうなったのだろう、と考えることがある。
きっと、ゲームの歴史も今とは大きく違っていたことだろう。

司書房からは順調に次の依頼をもらった。高塚さのりが次第に忙しくなる僕の手伝いをしてくれるようになっていった。
と同時に、いつの間にか大学を辞めていた杏東ぢーなから、「ロリポップ」の川瀬編集長が僕に会いたがっている、という話を受ける。このころ杏東はSF研の先輩・後藤寿庵が看板の「ロリポップ」に四コマ漫画の持ち込みをしていた。
ロリポップ」の編集部は僕の家から歩いて10分ほどの距離にあった。
川瀬氏から執筆依頼を受けた僕は、翌年早々からほぼ毎月「ロリポップ」に執筆することになる。

大学は四年生になっていたが、じつは既にプロになることを決めていた僕は就職活動なぞ一切やっていなかった。加えて構造力学の単位が取れなかったため(断っておくが、他は成績はそれなりに優秀だった。特に設計はトップクラスだった)留年がほぼ決まりそうだった。
残り二ヶ月、卒業資格まであと3単位を残して僕は大学を辞めた。
もともと漫画の背景を描く足しになるかも、と思って建築を専科に選んだだけだったので、必要なものは既に身に付けていた。別に未練は無かった。
学科長に挨拶に行き「実は昨年、漫画家としてデビューしました」と告げると、教授は
「良かったね、じゃあ一番早く就職が決まったんだ。おめでとう」と言ってくれた。

こうしてプロとしての道を歩き始めた翌年、元号は昭和から平成に変わった。
ほどなく手塚治虫の逝去の知らせが日本を駆け巡った。生前一度だけサインをもらったけれど、また憧れていたひとに辿り着けなかった。
いや、ほんの三ヶ月だったが、ギリギリで「同業者」となれたのだ。或いは間に合ったのかもしれない。
僕はまだ、入り江に漕ぎ出したばかりだった。荒波轟く大海は、まだ遠かった。


その「コミックラム」の司書房編集部で、僕は西崎まりのと出逢う。

コミックラム(その1)

コミックラムvol.1、1987年11月


僕は運命論者である。
以前「出逢いとは奇異な偶然が重なって起きるものだ」と書いたが、偶然が重なることで必然が生まれるのだとも思う。
いずれ記す時もあろうかと思うが、師匠・ふくしま政美との出逢いも、何か大きな流れに押し流されてそこに辿り着いたという印象が強い。人生が動くときというのは、この様な、努力とかいったものとは全く別の、いくら努力しても叶うことのない、どうにもならない必然が生むものなのだ。
だからと云って努力しないでいい、ということでは無いが。
例えば高塚さのりと三度も出逢いの機会を得ていたのも、必ずその先に運命の道が通じていたからであろうと考えている。事実、まりのさんを始めとする様々な人々との必然の出逢いはそこから通じているのだから。
僕と西崎まりのとの人生の糸が絡むときは、もうすぐそこまで来ていた。



「コミックラム」が司書房から発刊されたのは昭和62年の9月。早瀬たくみいぶきのぶたかろひさとぶあ松原香織、もりばやしりんご等を執筆陣に迎えた隔月刊誌だった。それまで「劇画エロス」という本格エロ劇画誌を制作していた司書房は、この「ラム」から本格的にエロ漫画というジャンルに参入していく。『エロ劇画』は徐々に衰退し、「劇画エロス」もこの数年後に廃刊。時代は『エロ漫画』へと移行しようとしていた。
そして、この本の巻末には、西崎まりのの作品が掲載されてていた。

既にまりのさんは東京に出てきていた。
それ以前の彼について詳しくは知らない。大学以後、スナックの雇われマスターも一時やっていた、と語ってくれたこともあるが。名古屋を経て東京にやって来たのかも知れない。
まりのさんは、戸越銀座近く、五反田のヘンな名前のマンションに弟と同居していた。

僕が初めてこの「ラム」を手に取ったのは神保町の高岡書店。当時既に友人となっていたりんごの作品が載っているというので購入をした。
作品名は『少女探偵RINNちゃんの事件簿』。高塚さのりがアシスタントをしていた。
森林林檎は、既に3つの連載を抱える人気作家となっていた。
十月革命』という同人誌を見て僕に対しての評価が変わったりんごは、僕に手伝ってくれと声をかける。アシとして彼の許へ通うようになるのは、この年の暮れあたりからだったと思う。僕が主に手伝っていたのはこの『RINNちゃん』だった。

この頃、高瀬遙と森林林檎、高塚さのり、そして僕とで高塚の家に一ヶ月ほど合宿のように泊まりこんで4人で合作漫画を作ったりもした。残念ながら完成には至らなかったが。これもまた幻の作品である。

高田馬場の「まんがの森」では当時ロリコン系の漫画家のサイン会が頻繁に催されており、りんごもこの時期におこなっている。
それとほぼ同じ頃、早瀬たくみのサイン会が同所で催された。
僕や高塚はまだ彼女との面識前だったが、りんごのアシをしていた二人は冷やかし半分で赴いた。
業界内で顔の広い彼女らしく、店の外にはそうそうたるメンバーの漫画家たちが顔を揃えていた。
いぶきのぶたか、毛羽毛現、海野やよい…などなどなど。
(あくまでも記憶を頼りとしているので、思い違いの場合はご指摘ください…)
その中に、西崎まりのの姿もあった。
後にO子女史から『ホットミルク』の読者コーナーを引き継ぐことになる、当時は高校生の結城らんなもいた。彼女はまだ一介のハガキ読者に過ぎなかった。

おそらく、これが僕がまりのさんの姿を見た最初の日だったはずだ。

映画用語に"cut forward"というのがある。
あの日、あの場にはその後の僕の人生に関わる人々が眼前に現れていた。僕にとっての"cut forward"の瞬間だった。
いくら努力しても叶うことのない、どうにもならない必然。
昭和63年。春のことである。
(画像はラム創刊号裏表紙)

コミックロリポップ

コミックロリポップ1988年2月号折り込

「迷羊通信」という小さなコピー誌がコミケの『イワえもん』こと岩田さんにチェックされるようになった、という事実は僕に大きな自信を与えた。発行4冊目を迎えた頃に参加した夏のコミケで、同誌は60冊を越える売り上げとなった。その全ての表紙を手描きしてヘロヘロになった。

僕は次の計画を考えていた。
ロリコン系の作家を目指してこの一年で絵柄を変え、いよいよ実際にそのジャンルに進出しようというのだ。

美少女漫画のブームは雑誌の新創刊ラッシュを産んでいた。だが次々と発刊される本に対して、描き手の絶対数は圧倒的に不足していた。各誌の編集者は即売会場へと足を運び、同人作家たちを青田買いしていた。
エロパロ同人誌で名が売れれば、出版社が目を付け翌月には商業誌にデビューする、というような時代だった。森林林檎もそんなうねりの中で商業デビューを果たし、当時はまだ大学生でありながら幾つもの連載を抱える人気作家となっていた。
要は「名を売ればいい」わけである。プロを目指していた僕は極めて計画的かつ戦略的に展開した。

当時のエロパロはラムちゃんがなんと言っても主流だった。詳細は端折ることにするが、その頃のエロパロ作品には不足していたものを自作に取り入れることで注目を集めようと考えていた僕の狙いは当たり、秋のコミック・レヴォリューション(と記憶している)でラム本『十月革命』は400部を完売した。冬コミでは500部。
この一冊より、僕はペンネームを『浦島礼仁』とした。

サークル名も「迷羊社」から「FITS PROJECT」になった。
十月革命』の中で僕は「自分の買いたくない本は作らない」と記した。それは「いからち」を辞めるときに決めたことと同じだった。この『面白漫画宣言』は僕の同人界への宣戦布告だった。

当時この本を渡した時にもりばやしりんごが僕に言った、
「なんだ、しぃちゃん(当時僕はこう呼ばれていた)もエロ、ヤるんじゃん」
という言葉が忘れられない。

ほどなく僕は高塚さのりと一緒にりんごのアシをするようになる。


ラム本『十月革命』は、狙いどおり注目をされ、様々な同人誌紹介コーナーや「美少女症候群」にも取り上げられた。
そんな中、沖由佳雄氏が構成をする同人誌の紹介コーナーで『十月革命』を紹介してくれることになった。その雑誌は「コミックロリポップ」。編集長は、かつてかがみあきらを表紙にした『マルガリータ』という雑誌を作っていた川瀬氏だった。看板作家は後藤寿庵
単に普通の紹介だろうと思っていた僕は、掲載された本を見て驚いた。
十月革命』は「わくわく同人誌ランド」という枠で3頁の大特集を組まれていた。
昭和63年2月号。
その号の折込みピンナップには、西崎まりのが寄稿をしていた。
(画像はそのまりのさんのピンナップ[部分])

ぱふ(その3)

会を離れるとなると、とたんに「いからち」内部での僕への風当たりは強さを増した。
「一人でやると言ったクセに山下を引き抜こうとしている」「個人サークルと云ってもまだ小さいコピー本しか作っていないくせに」云々。
もう、言われるままにしておくしかなかった。

ちょうどこんな一人になったときに、僕はMGMで高瀬遙と隣になったのだった。

「ひとつのドアが閉じられると、必ず次のドアが開く」。

これもまたそんなタイミングだったのだろう。この日を境に、僕の周辺は大きく変わっていく。
高塚さのりと森林林檎、そして岩田さんとの出逢い。

特に高瀬遙と森林林檎との出逢いは僕のこれからの方向を決めるのに影響を与えたのだと思う。
「自分の買いたいと思うような本を作る」のが作り手としての責任だと感じはじめていた僕にとって、「僕の好んで買っている」同人誌とは、今を席巻しつつある美少女同人というジャンル。

極めて明快かつ論理的に僕はロリコンエロ作家を目指そうと決心したのだった。

そのために自らの絵も変えることにした。
ところがこの進路転換は「いからち」の女性メンバー達に僕へのバッシングの更なる激しさを招いた。
本来、「いからち」を辞めることとロリコン路線へ行くこととはまったく別個のものの筈である。だが「いからち」内ではいつしか僕が「ロリコンジャンルに行く為に会を辞める」という論理にすり替わってしまっていた。
そのような状況が山下友美の目にもどう映っていたのかは判らない。が、こんなゴタゴタと共に「おともだち倶楽部」も空中分解していく。大元は代表のはずの僕が『何も進めないから』というのが理由だったが。結局、このユニットはB6のコピー本一冊を出しただけで幻の企画となってしまう。
もしあの時、キチンと本が出せていたらどうなっていたのだろうか…とも思うのだが、所詮は歴史の綾だ。

後に山下友美は某誌で準入選しデビューするのたが、その時の応募作が雑誌に掲載された時、僕にはすぐにピンときた。
それは、あの「おともだち倶楽部」で彼女が描こうとしていたお話が原型だったのだ。


けじめをつけるために、「いからち」では最後にやりたいことをやらせてもらうことになった。
『いからち・7』の表紙と、最長28頁の長編の掲載である。
編集人は同期の中でも僕の理解者だったKさんが就いた。

僕はそこで自らの「いからち」への想いを全てぶつけたつもりだ。作品と、表紙絵で。
表紙には「今の自分」の絵を描いた。空を漂う美少女の全身像。下にはビルの群。
想像どおり、これによって今まで来なかったような男性客が多く手に取ったらしい。
表紙から回り込んだ裏表紙の絵の中、隅に浮かぶ気球の横腹には『燕雀安知鴻鵠之志哉』と記した。
これは僕のこのサークルへの最後の置き土産。最大の皮肉である。この意味を知ったなら、かのメンバーはどう思ったのであろうか。
もちろん、種明かしをするつもりも無かったけれど。

後に、アシスタントにこの本を見せたことがある。その時の彼の反応は「先生、これで何にも言わなかったんですか? 去っていく人の背に塩撒くような内容じゃないっスか!?」だった。
彼女達の僕へのコメントがどんなものであったのか、その言葉で想像していただければ充分であろう。

昭和62年、春。
僕が西崎まりのと出遭うのは、これより一年ほど後のことである。



本編とはかなり外れた内容におつきあいくださり、どうもありがとうございました。
これで「余談」の項はひとまず終わり。次回からふたたびプロローグを続けます。

ぱふ(その2)

「おともだち倶楽部」創刊準備コピー本

「ぱふ」で「いからち・4」がもっとも評価された点は、「読んでほしい」のに「本が売れない」というジレンマを前面に押し出した編集方針だった。その苦楽を本として現した部分に興味を持たれたらしい。
どういった形にせよ、「いからちの会」が外で認められたのは初めてのことだった。
だが、この一件で僕の会での発言力が増し「いからち」もより良い方向へと向かったのかというと決してそうではなく、事実はむしろ逆の結果を産んだ。
たとい「ぱふ」にちょっと紹介されたからといって、事態は好転はしない。相変わらず「いからち」の本は売れなかった。

僕は次の段階に着手する。
サテライトの設置、である。具体的には既に創設していた個人サークル「迷羊社」もその一つだが、更により発展的なものを考えていた。
先の山下友美と、他の漫研と天文研を兼部していた者ふたり、合わせて4人が集まって新たに本を作ろうという計画。
云わば精鋭部隊の創設である。
4人のメンバー、ということで僕の頭にはあの「THUBAN」があったのは事実だろう。
僕としてはこのユニットで「THUBAN」を目指していた。

「おともだち倶楽部」と名付けたそのサークル(今考えると、明らかな矛盾を孕んだ命名だ)は、だが理念だけが一人歩きをしてしまう。

そして「いからち」内からも、山下をはじめ他のメンバーを誘い新サークルを創るのは『引き抜き』だ、という猛烈な批判を浴びてしまう。自分としてはよりフットワークの軽いこのユニットを動かすことで「いからち」へ客を呼び込んでいこう、という考えだったのだが。
(プロレスファンなら『新日本プロレスゼロ(ゼロワンの前身)』を旗揚げした頃の橋本真也の立場、と云えば判りやすいだろうか…? かえって判り辛いかも)

正直『草野球チーム』である「いからちの会」に限界を感じ始めていたのも事実だ。だがこれをきっかけに「いからち」への情熱は急激に醒めていく。
と同時に、大きな疑問も沸き上がってくる。
はたして「いからち」は、『売れたい』『読んで欲しい』と云う前に、『買ってもらう』『読ませる』べく努力をしているのだろうか?
その努力もせずにただ嘆くのみでは、何にもならないのではないだろうか、と。

どんな同人誌だって、商業誌よりも高い値を出して買ってもらっているのなら、作り手はそれに責任を負うべきだろう。
「いからちの会」をはじめ創作系にはそれを考えていない場合が多い。
それは甘えである。
果たして自分も買う側にあったとき、どんな同人誌に代価を支払っていたか--------そう考えた時、自ずと答えは出るはずなのだ。
自分の買いたいと思えないような本を僕は作りたくはない。

「いからちの会」を離れよう、と僕は決心した。
(画像は「おともだち倶楽部」創刊準備号のコピー誌。「しづか透」が当時の浦嶋のPN)

ぱふ(その1)

少し時間を戻すことにする-------
ちなみにここからの3項は少々横道に逸れ過ぎた内容となるので、読み飛ばしても構いません。
お急ぎの方はプロローグ(6)<コミックロリポップ>
http://d.hatena.ne.jp/urashima41/20060410の項までスキップしてください。



漫画専門誌「ぱふ」には読者から送られた同人誌を紹介するコーナーがあり、『いからち』も2号目あたりからそこに送っていたと思うが、まだまだ誌面を割いて紹介してもらうレベルには達してはいなかった。
このことはメンバー達も充分に自覚をしていたはずと思う。
今も昔も純創作系の同人サークルにはよく発生するジレンマだが、「いからちの会」もまた『もっと多くの人に読んで(買って)もらいたい』のに『本が売れない』という問題に悩んでいた。
人間というのは勝手なもので、原因を内部ではなく外に求めてしまうものである。

「いからちの会」でサークル参加していた頃、コミケでの売り上げが0冊、ということが本当にあった。今にして思えばそれも宜(むべ)なることなのだが、やはりメンバーとしてはどうにかしようと努力もしたくなるものだ。だがもともとは高校の漫研のメンバーが卒業後も続けたいと思って始めた仲間である。基本的には「みんなで楽しくやれればいい」わけだった。売れセンになろうという気も考えも無い。本来それでいい筈なのだ。
実を云えば、僕が入部した時点での我が高校漫研のレベルは決して低いものではなかった。むしろ高校生としては異常に高かったと言っていい。
漫研の活動場所は美術室だったのだが、美術の先生や美術部員たちには煙たがられていた。
ひと学年上のある美術部員が、漫研の初めて作ったオフセット誌を見て「こんなの漫画じゃない」と激高したという逸話が残っている。だが、その会誌を見せてもらい、そのあまりのレベルの高さに僕は漫研への入部を決意したほどなのだ。今改めて見ても殆どがプロになってもおかしくないほどの超高校級だと思う。ひとつの学漫が作った会誌として、あれ程の本は今までに見たことがない、と断言できる。それ位あの時の部員はメンバーが粒揃いだった。きっとその美術部員は「美術部」ゆえに、漫画というジャンルを狭く考えすぎていたのだろう。漫研の作品は殆どが「24年組」の影響を受けたような新感覚少女漫画的な作品だった。
ところで、その批判をした美術部員は「俺がホントの漫画を描いてやる」と捨て台詞を吐き、自ら同人誌の制作を始める。彼の名は山川直人と言った。

高校時代のことで蛇足をもう一つ。自分は天文研究会にも入っていたのだが、そこのひとつ上の先輩は受験のとき、2日間あった共通一次の1日目を受けただけで「ダメだ」と2日目を受けずに進路転換、突然「漫画家になる」と言い出し、呆然とする周囲をよそに某漫画家養成の村塾(と書いてしまうとほぼ断定しているようなものだが)へ進んでしまった。後に再会したとき、彼はエロ漫画家になっていた。こちらの世界では二人の関係は逆転し、僕のほうがはるかに先輩となっていた。その先輩のPNは「中海義影」という。



もし同人界で本が売りたいのなら精鋭部隊を作ればいい。「超高校級」であったメンバーを揃えればそれはた易いことだった。だが、「いからちの会」の趣旨からそれはしたくない。それが会のリーダーの考えだったろう。会誌には描きたい者が描きたいぶんだけページをもらった。たといそれでレベルが落ちようとも。
ちなみに「いからち」とは『胃から血』と書く。高校当時の部長が皆の原稿の遅さに黒板にこの文字を書き置きし怒りを表現したことからついた。創立の名が体を表すごとく、あくまでも仲良しクラブが基本なのだ。みんなで草野球をやれれば満足なのか、都市対抗を目指すのか、といった違い。「いからち」は前者。
とは云ったものの、やはり売り上げを少しでも良くするためには上手い描き手も欠かせない。会のメンバーには既に他のサークルである程度同人で実績のある先輩もいた。本を作るたび、そうした先輩方へ原稿を頼みにいく。「1頁でも2頁でもいいから」と。
僕はそれは矛盾ととらえていた。

号を重ねるうち、僕が責任編集をする本を制作することになった。たぶん自ら志願したのだろう。
執筆メンバーの全てで高レベルを望めないのなら、あとは本としてのコンセプトや全体のデザインである程度までは押し上げることができるのではないか---------
僕の頭の中には、あの「THUBAN」や「COMPACTA」があった。

もともとデザインすることやレタリングなどは好きだったので、当時の自分の技術の全てを投入して僕は本を制作した。
「いからち・4」では編集によって本のクオリティを上げるという目標の他に、もうひとつの密かな野望があった。それまでの実績のある諸先輩方に依存しない自主独立な本の創設である。
そのために、僕はひとりの「新人」に目をつけた。
その彼女はまだ卒業直前で、厳密に云えばまだ「いからち」のメンバーではなかったのだが、その破天荒とも言える筆遣いと執筆のスピードの速さは高校入学の時点からすでに彼女の才能が並のものではないことを物語っていた。
寺山修司の名言に「書くことは速度でしかなかった。追い抜かれたものだけが紙の上に存在した」というのがあるが、まさにその言葉を地でいくような存在だった。
僕の卒業と入れ替わりに高校に入学した彼女を、僕自身はとても目にかけていた。漫研と天文研を兼部する、というのも一緒だった。
その「いからち」加入前の彼女を、僕は自身の編集する「4」の表紙に抜擢した。正直「和を以て尊しと成す」会の趣旨からは外れた行為だったろう。だが、僕は彼女こそが「いからち」という会が同人界の中でポジションを得るためには絶対に必要なのだ、と肌で感じとっていたのだと思う。
チームにはエースが必要であり、チームカラーはそのエースが創っていくものだからである。
それを担っていくのがルーキーなら、チームと共に成長もしていける。だから彼女を看板にしたかった。
彼女の当時のペンネームはMr.なっつ。後の山下友美である。

そうして出来た『いからち・4』は、「ぱふ」の同人誌ピックアップのコーナーに取り上げられた。
それは、かつて僕が初めて西崎まりのを知ったのと同じ見開き2頁の特集コーナーだった。