コミックロリポップ

コミックロリポップ1988年2月号折り込

「迷羊通信」という小さなコピー誌がコミケの『イワえもん』こと岩田さんにチェックされるようになった、という事実は僕に大きな自信を与えた。発行4冊目を迎えた頃に参加した夏のコミケで、同誌は60冊を越える売り上げとなった。その全ての表紙を手描きしてヘロヘロになった。

僕は次の計画を考えていた。
ロリコン系の作家を目指してこの一年で絵柄を変え、いよいよ実際にそのジャンルに進出しようというのだ。

美少女漫画のブームは雑誌の新創刊ラッシュを産んでいた。だが次々と発刊される本に対して、描き手の絶対数は圧倒的に不足していた。各誌の編集者は即売会場へと足を運び、同人作家たちを青田買いしていた。
エロパロ同人誌で名が売れれば、出版社が目を付け翌月には商業誌にデビューする、というような時代だった。森林林檎もそんなうねりの中で商業デビューを果たし、当時はまだ大学生でありながら幾つもの連載を抱える人気作家となっていた。
要は「名を売ればいい」わけである。プロを目指していた僕は極めて計画的かつ戦略的に展開した。

当時のエロパロはラムちゃんがなんと言っても主流だった。詳細は端折ることにするが、その頃のエロパロ作品には不足していたものを自作に取り入れることで注目を集めようと考えていた僕の狙いは当たり、秋のコミック・レヴォリューション(と記憶している)でラム本『十月革命』は400部を完売した。冬コミでは500部。
この一冊より、僕はペンネームを『浦島礼仁』とした。

サークル名も「迷羊社」から「FITS PROJECT」になった。
十月革命』の中で僕は「自分の買いたくない本は作らない」と記した。それは「いからち」を辞めるときに決めたことと同じだった。この『面白漫画宣言』は僕の同人界への宣戦布告だった。

当時この本を渡した時にもりばやしりんごが僕に言った、
「なんだ、しぃちゃん(当時僕はこう呼ばれていた)もエロ、ヤるんじゃん」
という言葉が忘れられない。

ほどなく僕は高塚さのりと一緒にりんごのアシをするようになる。


ラム本『十月革命』は、狙いどおり注目をされ、様々な同人誌紹介コーナーや「美少女症候群」にも取り上げられた。
そんな中、沖由佳雄氏が構成をする同人誌の紹介コーナーで『十月革命』を紹介してくれることになった。その雑誌は「コミックロリポップ」。編集長は、かつてかがみあきらを表紙にした『マルガリータ』という雑誌を作っていた川瀬氏だった。看板作家は後藤寿庵
単に普通の紹介だろうと思っていた僕は、掲載された本を見て驚いた。
十月革命』は「わくわく同人誌ランド」という枠で3頁の大特集を組まれていた。
昭和63年2月号。
その号の折込みピンナップには、西崎まりのが寄稿をしていた。
(画像はそのまりのさんのピンナップ[部分])