コミックラム(その2)

「コミックラム」を発行する司書房は水道橋にあり、僕の通う神田の大学からは歩いてすぐの距離だった。りんごの手伝いをするうち、知らず知らずのうちに僕もこの編集部によく足を運ぶようになっていった。きっかけはりんごの単行本の手伝いで2日ほど編集部にカンヅメになったことだった。その前から合わせておよそ一週間、ひたすらトーンを削りつづけていたら、終いには見るのものすべてに60線のアミトーンがかかって目に映るほどになってしまい、2日くらい直らなかった。
やがて当時毎日のように一緒に遊び歩くほど仲が良かった高塚さのりと、半ば溜まり場としてしまうくらいによく司書房に通った。

そんな日々を送るうち、「ラム」の山田編集長が僕に「そのうちネーム描いて持ってきてよ」と声をかける。山田さんにすればりんごのところでアシをしていた僕も漫画くらい描けるのだろう、という程度だったのだろう。
前述したとおり、エロ漫画雑誌業界はちょうど黎明期で、新創刊ラッシュの続く各編集部は必死で描き手を捜していた。
僕は山田編集長に「いま作っている同人誌の作業が終わったら、ネームを持ってきます」と約束した。
季節は初夏を迎えていた。

ラム本に続いて僕は『十月革命Ⅱ』を制作する。今度は「オレンジロード」のパロディ。制作にあたり前作以上に本としての構成やデザインを重視した。
後にこたつねこ(現・たつねこ)を看板作家に据えたサークル「こたつ屋」の当時の代表だったMORON氏にお会いした折「大竹(仮名)さんから、浦島さんみたいなちゃんとしたデザインの本を作れって言われてるんですよ」と言われたことがあった。当時飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長をしていたサークルの代表でもあったMORON氏や、あの大竹さんが自分の本を見てくれていたことに驚くと同時に自信を深めた。
十月革命Ⅱ』は夏コミにてリリースされた。

約束どおり、コミケの直後僕はネームを司書房へ持参する。一見した後、山田さんの口から出た言葉は
「じゃあ、これ原稿にして来て」だった。
拍子抜けした。何回かは手直しを求められるのかなァとか思っていたからだ。

後になって、山田さんは原稿を眺めて「あ、こーいうお話だったんだぁ。初めて知った」と平然と言ってのける人物だということを知るのだが。

8月に描いたネームは9月に原稿アップ。10月には「コミックラム」第8号に掲載された。あまりにもあっさりと僕はプロデビューをしてしまったのだった。
正直、プロになるべく計画と戦略を練ってはきたつもりだったが、デビューは僕の想像を超えて簡単に叶ってしまった。
りんごのアシを始めてほぼ一年。僕が「いからちの会」を辞めてから、一年半も経ってはいなかった。
作品名「STAIR-GOBLIN」。12頁。これが浦島礼仁の公式記録となった。

その翌月。「花とゆめ」に新人賞の準入選作が掲載される。作者名は山下友美だった。
僕のデビューは山下の入選に伴い「いからち」では黙殺された。
祝福してくれたのは、高塚やりんご達だった。特にりんごは僕が家を出て仕事場を持つとき
「どうせ単行本が出ればすぐ返せるだろ?」と云って、ポン、と30万円を貸してくれた。今も感謝している。
あの当時のエロ漫画界は、一年原稿を描いていればすぐに単行本が一冊出て印税が100万円入ってくるような状況だったのだ。バブルも伴い、それほど景気は右肩上がりだった。
森林林檎は、就職と共にあっさりと漫画家としての生活を辞めてしまった。
じつはりんごは某大手ゲーム会社の内定が決まっていたものの留年、フイになった経緯がある。結局翌年ソフト会社へ就職するが、あのときそのゲーム会社に勤めていたらどうなったのだろう、と考えることがある。
きっと、ゲームの歴史も今とは大きく違っていたことだろう。

司書房からは順調に次の依頼をもらった。高塚さのりが次第に忙しくなる僕の手伝いをしてくれるようになっていった。
と同時に、いつの間にか大学を辞めていた杏東ぢーなから、「ロリポップ」の川瀬編集長が僕に会いたがっている、という話を受ける。このころ杏東はSF研の先輩・後藤寿庵が看板の「ロリポップ」に四コマ漫画の持ち込みをしていた。
ロリポップ」の編集部は僕の家から歩いて10分ほどの距離にあった。
川瀬氏から執筆依頼を受けた僕は、翌年早々からほぼ毎月「ロリポップ」に執筆することになる。

大学は四年生になっていたが、じつは既にプロになることを決めていた僕は就職活動なぞ一切やっていなかった。加えて構造力学の単位が取れなかったため(断っておくが、他は成績はそれなりに優秀だった。特に設計はトップクラスだった)留年がほぼ決まりそうだった。
残り二ヶ月、卒業資格まであと3単位を残して僕は大学を辞めた。
もともと漫画の背景を描く足しになるかも、と思って建築を専科に選んだだけだったので、必要なものは既に身に付けていた。別に未練は無かった。
学科長に挨拶に行き「実は昨年、漫画家としてデビューしました」と告げると、教授は
「良かったね、じゃあ一番早く就職が決まったんだ。おめでとう」と言ってくれた。

こうしてプロとしての道を歩き始めた翌年、元号は昭和から平成に変わった。
ほどなく手塚治虫の逝去の知らせが日本を駆け巡った。生前一度だけサインをもらったけれど、また憧れていたひとに辿り着けなかった。
いや、ほんの三ヶ月だったが、ギリギリで「同業者」となれたのだ。或いは間に合ったのかもしれない。
僕はまだ、入り江に漕ぎ出したばかりだった。荒波轟く大海は、まだ遠かった。


その「コミックラム」の司書房編集部で、僕は西崎まりのと出逢う。