ぱふ(その3)

会を離れるとなると、とたんに「いからち」内部での僕への風当たりは強さを増した。
「一人でやると言ったクセに山下を引き抜こうとしている」「個人サークルと云ってもまだ小さいコピー本しか作っていないくせに」云々。
もう、言われるままにしておくしかなかった。

ちょうどこんな一人になったときに、僕はMGMで高瀬遙と隣になったのだった。

「ひとつのドアが閉じられると、必ず次のドアが開く」。

これもまたそんなタイミングだったのだろう。この日を境に、僕の周辺は大きく変わっていく。
高塚さのりと森林林檎、そして岩田さんとの出逢い。

特に高瀬遙と森林林檎との出逢いは僕のこれからの方向を決めるのに影響を与えたのだと思う。
「自分の買いたいと思うような本を作る」のが作り手としての責任だと感じはじめていた僕にとって、「僕の好んで買っている」同人誌とは、今を席巻しつつある美少女同人というジャンル。

極めて明快かつ論理的に僕はロリコンエロ作家を目指そうと決心したのだった。

そのために自らの絵も変えることにした。
ところがこの進路転換は「いからち」の女性メンバー達に僕へのバッシングの更なる激しさを招いた。
本来、「いからち」を辞めることとロリコン路線へ行くこととはまったく別個のものの筈である。だが「いからち」内ではいつしか僕が「ロリコンジャンルに行く為に会を辞める」という論理にすり替わってしまっていた。
そのような状況が山下友美の目にもどう映っていたのかは判らない。が、こんなゴタゴタと共に「おともだち倶楽部」も空中分解していく。大元は代表のはずの僕が『何も進めないから』というのが理由だったが。結局、このユニットはB6のコピー本一冊を出しただけで幻の企画となってしまう。
もしあの時、キチンと本が出せていたらどうなっていたのだろうか…とも思うのだが、所詮は歴史の綾だ。

後に山下友美は某誌で準入選しデビューするのたが、その時の応募作が雑誌に掲載された時、僕にはすぐにピンときた。
それは、あの「おともだち倶楽部」で彼女が描こうとしていたお話が原型だったのだ。


けじめをつけるために、「いからち」では最後にやりたいことをやらせてもらうことになった。
『いからち・7』の表紙と、最長28頁の長編の掲載である。
編集人は同期の中でも僕の理解者だったKさんが就いた。

僕はそこで自らの「いからち」への想いを全てぶつけたつもりだ。作品と、表紙絵で。
表紙には「今の自分」の絵を描いた。空を漂う美少女の全身像。下にはビルの群。
想像どおり、これによって今まで来なかったような男性客が多く手に取ったらしい。
表紙から回り込んだ裏表紙の絵の中、隅に浮かぶ気球の横腹には『燕雀安知鴻鵠之志哉』と記した。
これは僕のこのサークルへの最後の置き土産。最大の皮肉である。この意味を知ったなら、かのメンバーはどう思ったのであろうか。
もちろん、種明かしをするつもりも無かったけれど。

後に、アシスタントにこの本を見せたことがある。その時の彼の反応は「先生、これで何にも言わなかったんですか? 去っていく人の背に塩撒くような内容じゃないっスか!?」だった。
彼女達の僕へのコメントがどんなものであったのか、その言葉で想像していただければ充分であろう。

昭和62年、春。
僕が西崎まりのと出遭うのは、これより一年ほど後のことである。



本編とはかなり外れた内容におつきあいくださり、どうもありがとうございました。
これで「余談」の項はひとまず終わり。次回からふたたびプロローグを続けます。