サイバーコミックスとゼネプロ時代(その5)

Iくんとの件では、僕は自分の仕事もありながらもMに泣きつかれその合間を縫ってアシをした。
91年頃といえば、僕自身も月に2〜4本をこなしてしたくらいには忙しかったにも拘わらず、だ。

ところがこうした件はこれに止まらず、以後もMの『尻拭い』を僕やまりのさんはさせられることになる。
それは何もゼネプロ編集部だけのことではなかった。

    *    *    *

時系列的にどうだったのかは忘れたが…ちょうど先述の作家Iくんへの手伝いのときにはまだゼネプロにはMしかいなかったと記憶しているので、そのあとのことだったのかと思う。
何かの折に、杏東ぢーなが僕に相談をしてきた。
"そろそろ専門学校を卒業するので、どこかに就職をしたい。ついては、ゼネプロに入るにはどうすればいい?"ということだ。
どうしてそこで杏東が就職先にゼネプロを考えたのかは忘れてしまった。ひょっとしたら僕が焚き付けたことだったのかもしれない。

相談を受けたのがたしか夏コミの会場だったので、僕はその会場にちょうど重馬敬氏がいるのを思い出した。重馬氏は小説家・ゲーム原作者で、このつい前までゼネプロにいた人。後に「サイレントメビウス」のノベライズや同劇場アニメのシナリオあたりもたしかやっていた。氏とはまりのさんの仲介で酒の席でよく一緒になっていた。
(その他にも、いろいろと世話になっているが…いまだにその借りは返せていないのをこの場でお詫びしたい)

「それなら、重馬さんにちょっと相談してみようよ」と、僕は杏東を氏のところへ連れて行った。

「すいません重馬さん、こいつボクの友達なんですけど…ゼネプロに入りたいって言ってるんですが、どうやればいいですかね?」
重馬さんは「う〜んそうかぁー」と言いながら親切に説明してくれた。

そのあとでこのことをまりのさんに話すと、
「えぇ〜〜〜っ、そぉれを相談するのは、シゲマには酷ですよぉ〜浦島さぁ〜ん」
と言われてしまった。
…まァ、重馬氏もそれなりにいろいろとあってゼネプロを辞めた人間なので、その人物に"追ン出た会社にはどうやって入れる?"というのも野暮なものだ。たしかに。

ともあれその重馬氏の助言もあってか、杏東はゼネプロに履歴書を持参し直談判、入社をする。
サイバーコミックスの編集部には、編集長の福原氏、M、そして杏東…と、すべて西崎まりの縁(ゆかり)の人間たちで占められることとなった。

杏東は社内でそれなりにスチャラカ社員として振る舞っていた様子である。いろいろと当時や後でウワサを耳にもしたが、とても書けないことも多い。まあ、彼らしいといえばそれまでのことだ。
ある時ゼネブロ・ガイナ合同の恒例マージャン大会があり、こともあろうに杏東が準優勝してしまった。もともとがフリーでひとりで雀荘に行くほどの麻雀好きだった杏東だったし、大学SF研の頃も相当強かったのでそのことじたいにはさして驚かなかったが、某作家氏から
「この会社は接待マージャンもできねーのか!!」
と罵倒されたというのはなかなかに迷エピソードとして今も記憶に残っている。




ちょうどそのコミケか、これの前の冬コミあたりだったと思う。ある同人誌作家がまさに彗星の如く我々の眼前に出現し、もの凄いスピードで超人気作家となっていった。
もともとは細々と創作同人系でやっていたらしい。Mはその頃からこの作家に目をつけていたらしく、既に顔見知りだった。たしか300部程度しか発行されず、即完売したというそのサークルの初エロ同人誌を、僕はMから高塚さのりの家で見せてもらったのを憶えている。
二人の作家の合同誌。両方とも目を見張るほどのレベルの高さ。

そのうちの一人は特に今までに見たこともないような、流麗なペンタッチでハードなエロ表現をしていた。抜群に上手かった。
はっきりいって、こんなに上手い人までもこのエロ漫画というジャンルに参入してくるのか…というのが驚愕だった。エロ漫画、というジャンルそのものが新しい段階へと登っていくのを予感させた。

作家の名前は『一二三四五』。こう書いて"うたたねひろゆき"と読む、変わったペンネームの描き手だった。

サイバーコミックスとゼネプロ時代(その4)

Iくんは僕が出逢った中でいちばん仕事をしない作家だった。
最近は少なくなったのかもしれない。よその編集部でもカンヅメはあったが、ゼネプロではほぼ常態と化していた。とはいえ食事もぜんぶ編集部持ち。トーン代やアシ代も。ガイナのアニメ班用の寝部屋も近隣のマンションにあって、カンヅメとはいえ、環境は相当恵まれていた。

Iくんはそれをカサに着て原稿を延ばし延ばしにしている。僕にはそんな印象しか見受けられなかった。
ここで彼のことを"先生"とは呼ばずあえて「くん」付けで呼ぶのも、僕自身が彼を作家として尊敬ができないからだ。
僕が入っているあいだも、殆どが仕事もろくにせずだらだらと遊ぶだけだった。

あまりにも目に余る彼の態度に、呆れた僕は編集長に尋ねた。
「なンであんな仕事もしない作家を大事にしとくんです?」
「しょうがないのよ…バンダイからの預りだからサ」
いろいろとあるのはわかる。だが、この編集部はその度を越していた。


Iくんのアシに入って数日後。ついに明日締切りという夜、とうとう僕は彼に言った。
「じゃあ、あとの20枚、のこりの時間で割って1枚45分ずつで上げるつもりなんですね? 自分でそのペースで出来ると思ってたからそれで今まで遊び呆けてたわけだ。
んじゃ、せいぜいがんばってください!! 俺もいる限り手伝うから」
じっさい、僕も自分の仕事が迫っていたので、そこに居られるのはものの数時間しか無かった。


結果。
僕の居た時間内には当然原稿は上がらず、結局またずるずると延びていたようだ。



その後そのIくんがどうなったのかは知らない。けど、もし今でも漫画を続けているのなら、たぶん今も編集を泣かせていることだろう。
それでも彼の原稿が欲しい、ということならべつに僕自身からはいっさい非難はしないけど。それもまたこの漫画界というものだ。

ただ…
編集者に対して、作家に本当に必要なのは、信頼と誠意ではないだろうか。
少なくとも、僕はそう思う。

米やん

米澤嘉博氏、米やんが亡くなったよ、まりのさん。
肺ガンだったってさ。タバコの好きなひとみたいだったからね。

これであの日のトークイベントに出てたまりのさんと米澤さん、イワえもんの3人もいなくなっちゃった。あ、岩田さんはドタキャンしたんだっけ。
そっちで会ったらよろしく。

もう10月。
まりのさんの三回忌ももうすぐだね。
10月12日には、飲もう。

サイバーコミックスとゼネプロ時代(その3)

「原稿破って捨てたァ? まりのさんが?」
「ええ、俺びっくりしちゃいましたよ」
「どうして?」
「いや、聞いたら『もうこの原稿は要らないから』って。自分の納得できる出来じゃなかったからみたいです」
「そんな、もったいない-----まりのさんのナマ原なんて、欲しいヤツなんかいっぱいいるだろうに…」

原稿破棄事件は、まりのさんの彼なりの無言の抗議だった。
だがMをはじめ、編集長さえも彼の行動の真意は理解できていなかった。
仕方ないかもしれない。僕でさえ「まりのさんほどのレベルの人なら、そんなこともあるのかな」と考え、当初は誤解していたくらいだから。

まりのさんは後に僕には語ってくれた。
「そんなの、誰だって自分の原稿なんだから、捨てるなんて嫌にきまってるじゃないっすか。
あれは、Mへの抗議ですって。ンなもの、俺が描きたくもない仕事やらせてからに。だからアイツの目の前で破り捨てたんでスって。そりゃ俺はMとはトモダチだから、頼まれたら穴埋めだって代原だって引き受けますよ。けど、それに対してMが"お前、俺の描き手としての気持ちをわかってんのか?"ってことですよ」
エリアルコミックの4ページは、明らかにページ調整のためのものだった。友人として助けるのは仕方ない、当然だとしても、それはべつに『誰でもいい』ページだ。西崎まりのという作家をあえて使う必要がない。
まりのさんが言いたかったのは、表現者としての誇りだ。
残念ながら、Mは友人だという理由でそれを無視してしまった。だから仕事としては受けたが…ということだった。

このことは、ひょっとしたらまりのさんは僕くらいにしか話してないのかもしれない。

当初はそんなもんかなァと聞いていた僕であったが、以後ゼネプロ/Mから僕もまりのさんとまったく同様の状況に落とし入れられていく。



ある日、そのMから連絡を受けた。
「じつはちょっと申し訳ないんですけど…浦島さん、アシスタントをやってもらえませんか?」

当時ゼネプロでは1〜2名の作家がほぼ常にカンヅメとなって原稿を描いていた。
そのうちの一人、サイバーコミックスで「混淆なんたら」というオリジナル作を連載していたIという作家の手伝いをして欲しいとMが頼んできたのだ。
最初は僕のところにアシで来ていた那瀬智秀くんに行かせたが、次にはどういったいきさつかは忘れたが僕自身が行くことになった。
その那瀬くんからも聞いてはいたのだが、僕が行ってみて驚いた。
Iクンは、まったく仕事をしない漫画家だったのだ。

サイバーコミックスとゼネプロ時代(その2)

平成元年。すでに季節がいつだったかは記憶が欠落しているが、時期を考えると秋くらいのことだったのだろうか。
もはや、細かいことは思い出せなくなってしまった。それだけ年月が過ぎたのだ。
西崎まりのは、ガイナックス(ゼネプロ)の『サイレントメビウス』のPCゲームのグラフィックの仕事をしていた。同コミックのキャラを使ったいわゆる脱衣系のゲーム。2、3ヶ月はその仕事に関わっていたと思う。幾度か僕もガイナのオフィスに行き始めていたので、深夜の仕事場でパソコンのモニターに向かっているまりのさんを見た記憶がある。
下に書くが、僕があの吉祥寺はずれのオフィスに出入りするようになるのはMがゼネプロに入社して以後のことになるから、Mはほぼその前後にゼネプロに入ったのだろう。平成元年の秋から平成2年春までの間のことはたしかなようだ。

正直、あれほどの独創性を持った西崎まりののような芸術家タイプの絵師なら、今更べつにパソコンのドッターやグラフィッカーのような仕事なぞやることも無いだろう、と思う。
引き受けたのは、昔のよしみからだったろう。ちょうどガイナのほうで手が足りないから請われたようなことも言っていた覚えがある。

だが、と僕は思う。

いくら人手不足だからと云っても、西崎まりのにはもっと彼にふさわしい仕事を与えたらいいだろうに。確かにあの当時、パソコン上で絵を仕上げるには今よりも難しいスキルも必要だったろう。けれど、それは西崎まりのに頼むべき仕事だろうか。
先のサイバーコミックスの件もそうだが、ガイナやゼネプロは人のいい西崎まりのに甘えていた、と思う。

それが、以後更なる事態を見ることになるのだが。



この頃、すぐ後くらいだったろうか、以前に何度か登場した司書房の編集アルバイトをしていたMが、ゼネプロのサイバーコミックス編集部に入る。もちろん、まりのさんとの繋がりでそうなっていたはずだ。詳しい時期はこれも失念してしまったが。
そのMがゼネプロで手がけたのが、朝日ソノラマから発行された「エリアルコミック」だった。平成2年、夏。
同誌の主な執筆陣の中、松原香織、そしてDr.モローなどはMの"手土産"だ。僕も3号めから参加をしている。
当初不定期に発行されていた同誌だったが、その4号めにMからの依頼を受け、西崎まりのは「Windy Lady」という4頁作品を執筆する。
もちろん、当人はべつに「ARIEL」という笹本祐一氏のSF小説のファンだったわけではない。
もともとゼネプロとは因縁もあるし、友人のMからの頼みだったので引き受けた。平成3年5月前後のこと。

そのエリアルコミックが出てすぐのこと。Mが話した。
「いやー驚きましたよぉ。編集部でまりのさんにエリアルの原稿を返したら、まりのさん、その場でその原稿を破ってゴミ箱に捨てちゃったんですよ…」

まりのさんも、僕も、ゼネプロ編集部に振り回されはじめていた。

サイバーコミックスとゼネプロ時代(その1)

バンダイから「サイバーコミックス」というA5平綴じ本が発行されていた。
編集を委託されていたのはゼネラルプロダクツ。後のガイナックスである。僕の印象では、ゼネプロは主に編集部門として社内に存在していた。

当時、ガイナックスは『トップをねらえ!』を終え『ふしぎの海のナディア』のさ中くらいの状況だったろうか。
あの頃の社内の状況は『おたくのビデオ』がかなり詳細に伝えてくれている。(あの作品には当時の知り合いが数多く実写パートで実際に出演している)
会社への階段を昇ると、正面には「怪傑のーてんき」の巨大な写真パネル。社員たちは毎日この「のーてんき」を拝みながら出社するのか…といつもそれを見るたびに思った。
分別ゴミの貼り紙にノリコやお姉さまの落書きがあったり、アニメ部のほうには『王立宇宙軍』の題字に使われたらしい筆文字がうやうやしく額に飾られていた。

僕がまりのさんのところへ通うようになって直ぐの頃、平成元年初めに西崎まりのは「サイバーコミックス」で「FΦU」というガンダムの読み切りを執筆する。
大阪時代からのよしみでゼネプロの編集長とは旧知の仲だった縁で引き受けた仕事だった。本人も、それほど乗り気な仕事ではなかったのではないかと思う。正直、僕もあの作品はあまり評価はしていない。
けれどこれをきっかけにして、まりのさんとその周辺はゼネプロ編集部と関わりを持っていく。
本人だけでなくその周りにいた人々も一緒に引き擦られて動いていく、というのは、まりのさんがなぜだか親分肌、というかグループの中心だったからだ。人柄だろうか、彼の周りにはいつも多くの人がいた。みんなまりのさんを慕っていた。

あるとき、まりのさんとまったく連絡がとれなくなった。携帯もない当時、固定電話しか通信手段がないので、家にいなければもうどうしようもない。
もっとも、まりのさんは生涯携帯電話は持たなかったけれど。
仕方なく留守電にメッセージを残しておいたら、数日後連絡が返ってきた。
「ぜんぜん連絡とれなくて、どこ行ってたんですか?」
「いやいやー、じつはゼネプロにカンヅメになってたんすよ…」
まりのさんは急遽頼まれてPC用ゲーム『サイレントメビウス』の作画をしていたのだった。