ぱふ(その1)

少し時間を戻すことにする-------
ちなみにここからの3項は少々横道に逸れ過ぎた内容となるので、読み飛ばしても構いません。
お急ぎの方はプロローグ(6)<コミックロリポップ>
http://d.hatena.ne.jp/urashima41/20060410の項までスキップしてください。



漫画専門誌「ぱふ」には読者から送られた同人誌を紹介するコーナーがあり、『いからち』も2号目あたりからそこに送っていたと思うが、まだまだ誌面を割いて紹介してもらうレベルには達してはいなかった。
このことはメンバー達も充分に自覚をしていたはずと思う。
今も昔も純創作系の同人サークルにはよく発生するジレンマだが、「いからちの会」もまた『もっと多くの人に読んで(買って)もらいたい』のに『本が売れない』という問題に悩んでいた。
人間というのは勝手なもので、原因を内部ではなく外に求めてしまうものである。

「いからちの会」でサークル参加していた頃、コミケでの売り上げが0冊、ということが本当にあった。今にして思えばそれも宜(むべ)なることなのだが、やはりメンバーとしてはどうにかしようと努力もしたくなるものだ。だがもともとは高校の漫研のメンバーが卒業後も続けたいと思って始めた仲間である。基本的には「みんなで楽しくやれればいい」わけだった。売れセンになろうという気も考えも無い。本来それでいい筈なのだ。
実を云えば、僕が入部した時点での我が高校漫研のレベルは決して低いものではなかった。むしろ高校生としては異常に高かったと言っていい。
漫研の活動場所は美術室だったのだが、美術の先生や美術部員たちには煙たがられていた。
ひと学年上のある美術部員が、漫研の初めて作ったオフセット誌を見て「こんなの漫画じゃない」と激高したという逸話が残っている。だが、その会誌を見せてもらい、そのあまりのレベルの高さに僕は漫研への入部を決意したほどなのだ。今改めて見ても殆どがプロになってもおかしくないほどの超高校級だと思う。ひとつの学漫が作った会誌として、あれ程の本は今までに見たことがない、と断言できる。それ位あの時の部員はメンバーが粒揃いだった。きっとその美術部員は「美術部」ゆえに、漫画というジャンルを狭く考えすぎていたのだろう。漫研の作品は殆どが「24年組」の影響を受けたような新感覚少女漫画的な作品だった。
ところで、その批判をした美術部員は「俺がホントの漫画を描いてやる」と捨て台詞を吐き、自ら同人誌の制作を始める。彼の名は山川直人と言った。

高校時代のことで蛇足をもう一つ。自分は天文研究会にも入っていたのだが、そこのひとつ上の先輩は受験のとき、2日間あった共通一次の1日目を受けただけで「ダメだ」と2日目を受けずに進路転換、突然「漫画家になる」と言い出し、呆然とする周囲をよそに某漫画家養成の村塾(と書いてしまうとほぼ断定しているようなものだが)へ進んでしまった。後に再会したとき、彼はエロ漫画家になっていた。こちらの世界では二人の関係は逆転し、僕のほうがはるかに先輩となっていた。その先輩のPNは「中海義影」という。



もし同人界で本が売りたいのなら精鋭部隊を作ればいい。「超高校級」であったメンバーを揃えればそれはた易いことだった。だが、「いからちの会」の趣旨からそれはしたくない。それが会のリーダーの考えだったろう。会誌には描きたい者が描きたいぶんだけページをもらった。たといそれでレベルが落ちようとも。
ちなみに「いからち」とは『胃から血』と書く。高校当時の部長が皆の原稿の遅さに黒板にこの文字を書き置きし怒りを表現したことからついた。創立の名が体を表すごとく、あくまでも仲良しクラブが基本なのだ。みんなで草野球をやれれば満足なのか、都市対抗を目指すのか、といった違い。「いからち」は前者。
とは云ったものの、やはり売り上げを少しでも良くするためには上手い描き手も欠かせない。会のメンバーには既に他のサークルである程度同人で実績のある先輩もいた。本を作るたび、そうした先輩方へ原稿を頼みにいく。「1頁でも2頁でもいいから」と。
僕はそれは矛盾ととらえていた。

号を重ねるうち、僕が責任編集をする本を制作することになった。たぶん自ら志願したのだろう。
執筆メンバーの全てで高レベルを望めないのなら、あとは本としてのコンセプトや全体のデザインである程度までは押し上げることができるのではないか---------
僕の頭の中には、あの「THUBAN」や「COMPACTA」があった。

もともとデザインすることやレタリングなどは好きだったので、当時の自分の技術の全てを投入して僕は本を制作した。
「いからち・4」では編集によって本のクオリティを上げるという目標の他に、もうひとつの密かな野望があった。それまでの実績のある諸先輩方に依存しない自主独立な本の創設である。
そのために、僕はひとりの「新人」に目をつけた。
その彼女はまだ卒業直前で、厳密に云えばまだ「いからち」のメンバーではなかったのだが、その破天荒とも言える筆遣いと執筆のスピードの速さは高校入学の時点からすでに彼女の才能が並のものではないことを物語っていた。
寺山修司の名言に「書くことは速度でしかなかった。追い抜かれたものだけが紙の上に存在した」というのがあるが、まさにその言葉を地でいくような存在だった。
僕の卒業と入れ替わりに高校に入学した彼女を、僕自身はとても目にかけていた。漫研と天文研を兼部する、というのも一緒だった。
その「いからち」加入前の彼女を、僕は自身の編集する「4」の表紙に抜擢した。正直「和を以て尊しと成す」会の趣旨からは外れた行為だったろう。だが、僕は彼女こそが「いからち」という会が同人界の中でポジションを得るためには絶対に必要なのだ、と肌で感じとっていたのだと思う。
チームにはエースが必要であり、チームカラーはそのエースが創っていくものだからである。
それを担っていくのがルーキーなら、チームと共に成長もしていける。だから彼女を看板にしたかった。
彼女の当時のペンネームはMr.なっつ。後の山下友美である。

そうして出来た『いからち・4』は、「ぱふ」の同人誌ピックアップのコーナーに取り上げられた。
それは、かつて僕が初めて西崎まりのを知ったのと同じ見開き2頁の特集コーナーだった。