同人誌ガイドブック

当時秘めやかに人気を誇った18禁アニメ『くりぃむレモン』シリーズのスマッシュヒット『ポップチェイサー』を例に挙げるまでもなく、「メカと美少女」はあの時代のキィ・ワードだった。この二項が描ける者が同人誌の紹介コーナーに載り舞台のコーラス・ラインの向こう側に躍り出た。
高瀬遙(たかせ・よう)という同人作家もそういった者のひとりだった。
MGMという即売会で、僕はこの高瀬遙と隣どうしとなった。既に彼のことは誌面で知っていた(というか、「高岡書店」か「まんがの森」あたりで彼の同人誌を買っていた)僕は、彼に話しかけ仲良くなった。
即売会の間じゅう、人気同人作家らしく彼のスペースにはひっきりなしで来客があった。そんな来訪者の中でガリガリの男がやって来て高瀬氏に挨拶をして去っていった。
「今のあの人がもりばやしりんごさんだよ」と高瀬氏は僕に教えてくれた。
森林林檎もまた、「美少女症候群」を始めとする同人紹介で急速に人気を高めていた描き手だった。
同じ日、高瀬氏を訪ねた数人のグループがいて、即売会の終了後高瀬氏に誘われ彼らともりばやしりんご等と同行しそのグループの溜り場へと付いていった。そこはグループの中心人物の家で、その人物こそ、高塚さのりだった。

RAMRAコミティアでの彼との遭遇は先述したが、実は彼と出逢うのはこれで三度目だった。
かつて新宿に『フリスペ』という、漫画マニア達がたむろする場所があり、高塚さのり達のグループはそこにも入り浸っていたらしい。自分も数回訪れたのだったが、その『フリスペ』が閉鎖することになった最後の日、僕も彼らもその場にいたのだった。
ちなみにそこには後藤寿庵もよく足を運んでいたらしい。たしかその最終日にも顔を出したような気がする。記憶違いかもしれないが。

余談ではあるが、高瀬遙、もりばやしりんご、高塚さのりと僕はまったくの同学年。
各人を記述することは端折るが、二つ年上であった西崎まりの(彼は早生まれだったので学年としては3コ上)を含め今まで登場した作家名の殆どは同世代である。当時二十歳前後だった者達が、この新しいジャンルを創造していったのだった。その場にいて参加できた自分は幸福だったと思う。


高瀬氏を仲立ちに知り合ったもりばやしりんごと高塚さのりは、その後僕の人生の進路を大きく変える役回りを担っていく。

「美少女症候群」から始まった同人誌を紹介するムック本は次々に発刊され、自ずと紹介される機会も増えていった。
そんな時、ちまちまと手作りコピー本を発行していた僕のところにも紹介の誘いが来る。
大正屋という出版社の出す「同人誌ガイドブック」という本であった。編集は、かつて理科大で「サザエさん」を作り、同人作家としても名を馳せていた大竹(仮名)氏だった。
高瀬遙氏やもりばやしりんごも同じ本で紹介され、僕としてはようやく彼らと同じところまで辿り着いたという気持ちだった。

ガイドブックに紹介されるのとほぼ同時期に、僕のコピー誌を買いに来始めた人がいた。売っている側からは常連客の顔は覚えてしまうものだが、その人はここ数年でいろんな即売会で非常によく見かけるようになった顔だった。
その人とは、コミケの名物スタッフ、『イワえもん』こと岩田次夫だった。

美少女症候群

昭和60年。
その頃、創作同人の世界ではひとつのエポックメイキングな作家とサークルが出現した。
厦門潤とその仲間4人のつくる「THUBAN」である。
その同人とは思えない作品のクオリティの高さと、一冊の本としての構成力は特筆ものだった。
あの時代、創作同人は商業誌とは別の場所でひとつのピークを迎えようとしていたのではないかと思う。
この「THUBAN」以外でも、MEIMU氏の所属する「TEAM COMPACTA」というサークルがMADA氏という優れたデザイナー・編集人の手により非常にハイエンドな同人誌を制作していた。
「THUBAN」のメンバーの年齢は僕よりほんのひとつ上。ほぼ同世代の作家たちが即売会という海の中でしのぎを削っていた。こういった優れた同人誌に触れ、『デザインワーク』や『ディレクション』、『エディティング』といったものへの興味が次第に芽生えていった。
いつかこの「THUBAN」や「COMPACTA」のような同人誌を作りたい…そんな漠然とした憧れを抱いた。
個人サークル「迷羊社」を立ち上げ即売会に参加し始めた自分がB6サイズのミニコピー本を作り、全手描き表紙ということをしていたのも、厦門潤氏が以前に同じことをやっていたのを知ったからだった。

この頃、西崎まりのは様々なサークルの同人誌に引っ張りだこでゲスト寄稿していた。僕はそういった本を即売会で見つけては買い集めていた。

純創作と美少女もの・エロを含むロリコンといったジャンルはまだ未分化で、創作系の作家でもかわいい女の子の絵を描く者たちはそちらに分類されてしまうこともたびたびおこっていた。
そんな描き手たちを紹介する雑誌なども「ぱふ」などの専門誌だけではなく「レモンピープル」や「ロリポップ」などロリ系誌も同人誌コーナーを作り掲載することも増えてきていた。
まりのさんもそんな混沌とした状況下で、いつしか「美少女漫画」にカテゴライズされていた…思えば、ここで「こちら側」に来てしまったことが彼にとっては結果として後の悲劇を招いたのではないかとも感じる。
出逢いとは奇異な偶然が重なって起きるものだが、僕にとってはこの分岐点がまりのさんとの関係を導き寄せてくれた幸運ではあるが、彼にとっては幸せだったのか。
こうした結末を迎えてしまった今では、わからない。



こうした出版社がこんどは同人誌を紹介するムック本を発行し始めていく。
「ComicBox」を発行していたふゅーじょんぷろだくとが「美少女症候群」という本を発刊したのもこの頃である。
この一冊により、美少女エロというジャンルは明確に分類され、一気にブームに火がついていったように思う。

まさに『群雄割拠』という言葉がよく当てはまる時代状況だった。コミケでは亜麻木桂やサークル「とろろいも」といったところが行列を作り、幅を利かせ始めていた。

漫画ブリッコ

大塚英志が編集長の『漫画ブリッコ』は、かがみあきら(あぽ)、藤原カムイ白倉由美といった作家陣を配し非常にエキセントリックな誌面を展開していた。
「三大少年誌の一角を目指す」というキャッチフレーズも斬新だった。
ブリッコの文章コラムには評論家の竹熊健太郎も執筆していた。彼のそのコーナーでは「ふくしま政美研究家」の宇田川岳夫といった人物も紹介されたりもしていた。

当時僕はこのあたりの描き手たちをかなり熱心に追いかけていた。中でも白倉由美は単行本発刊記念のサイン会にも足繁く通うほど。
白倉氏はサイン会のたびに自筆の原稿をプレゼントしてしまうファンサービス溢れた方で、自分もその恩恵に与った。
彼女の珠玉の名品「セーラー服で一晩中」のラストページの原画は、僕の手元にある。

ほどなく漫画ブリッコは編集長が斉藤O子氏へとバトンタッチ、ブリッコはやがて『ホットミルク』へと移行する。

大学に入っての初日、オリエンテーション漫研がないのを知った僕は仕方なくSF研へと足を運んでみると、先にひとりの新入生が来ていた。話をしてみると同じ建築学科の学生だった。
それが、杏東ぢーなだった。

SF研にはふたつ上の学年に後藤寿庵がいた。
O子氏の時代となったホットミルクで見開き2頁で『宇宙刑事モーモー』というちょっと不条理なギャグをちりばめた漫画を掲載していた。

やがてこの後藤さんを御輿に、学内でも漫研を結成しようという動きが興る。翌年同好会として承認、その次の年には正式に部活に昇格した。その時の文化部会サークル連合会の会長はSF研より送り込まれた漫研兼部の自分である。
東京電機大学工学部の漫研は、このような者たちによって創設されたのである。
(これを見ている現役部員諸君よ、心しておくように)



まりのさんとの想い出を語るつもりが、話がずいぶん横道に逸れていってしまいなんだか当時のロリコン漫画家列伝のような状況になってきてしまいました。
けれど、こうした背景も同時に活写しないと鮮明に浮き上がってはこないと思うのです。ご容赦を。
もうちょっとだけ横道におつきあいください。

プチ・アップルパイ

美少女漫画ブームの夜明けが訪れようとしていた。

大学に入る前年、代ゼミで浪人生活を送っていた僕は新宿の「まんがの森」によく通っていた。
そのギャラリーで『かがみあきら』の原画展が開催された。僕はこの展示で改めて彼の作品に触れ、ますますファンになっていた。
8月の熱い盛りだった。
ちょうどその原画展の開催中、かがみあきらは自宅で急逝する。おそらくは僕がその原画を見ていたその日に。
たったの27歳での夭折に、僕は衝撃を受けた。
会いたいと思っていた人に、永遠に叶わなくなることが悔しかった。
これほどの才能のある人が志半ばで死なねばならない--------
神様なんていないんだ、と僕が実感した瞬間だった。

かがみあきらも執筆していたと思うが、美少女漫画というものを前面に出した『プチ・アップルパイ』というアンソロジー徳間書店から刊行され始めたのもこの頃だったろうと思う。



「いからちの会」という高校OG会漫画サークルで即売会に参加する傍ら、僕は自分の個人サークルでの活動を始めた。
サークル名は「迷羊社」。
夏目漱石の『三四郎』の中の台詞から採った名だった。
当初は単にひとりで同人をつくり、即売会参加もしてみたいという動機だったのだが、やがてこの活動は徐々に変質をしていく。だが発足当時はそんなことは露ほども感じてはいなかった。
じつは個人サークルを始めたのは、当時の同人作家「LEO」さん、という人の影響が強い。
僕は浪人時代に彼の同人誌をまんがの森で手に入れ、ある意味同人活動においての目標としていた。
後にも先にも、僕がファンレターを出したのはこのLEO氏ただ一人である。
LEO氏とは、後の漫画家・奥田ひとし氏のことである。

「迷羊社」としての本を初めて持っていった即売会は創作オンリーの『COMITIA』。いからちの会に間借りして参加させてもらった。10円のコピー本。
なぜか飯田橋のショッピングモールRAMRAでのオープン開催。COMITIAがそこを使用したのは後にも先にもこの一回きりだったと思う。
[これの翌年、もう一度だけ同所でCOMITIAが開催されたことが判明。2007/4/49訂正]
隣りのサークルにはそこの友人と覚しき連中がたくさんたむろしていた。参加していたのは『おぐ・ぼっくえ』君というペンネームで、後に漫画家MEEくんの居候となる人だった。
そして、取り巻き連中の中には、『高塚さのり』という人物がいた。


同時に大学ではSF研究会に加入した。
入学当時、学内には漫研がなかったというのも理由だったが。

同じ頃、他大学のSF研の会誌では印象的な美少女のイラストが表紙を飾っていた。
作者のペンネームは『亜麻木硅』といった。

ロリコン漫画」から発した美少女漫画は、次第に「美少女エロ」というジャンルへと移行しようとしていた。

大阪で開催されたSFコンベンションにて、学生達の制作した自主アニメがオープニング作品として上映され、そのクオリティの高さがマニア間で話題となっていた。
DAICON Ⅲ』である。作ったのは大阪芸大の連中。後に彼らはゼネラルプロダクツ、そしてガイナックスという会社を設立していく。
『Ⅲ』に続き『DAICON Ⅳ』を発表、それに刺激を受けた各大学はこぞってアニメや実写の自主制作を手がけ始める。大学SF研が熱気を持ち盛り上がっていた。
東京では理科大アニメ研がコンピューターグラフィックを駆使し『サザエさん』という短編を作る。
中心となったのは大竹隆という人物、ペンネームを大竹(仮名)といった。

九州から四国の大学へと進んだ西崎まりのは、当時この大阪文化圏の中で活動していたらしい。ガイナックスのメンバーとの付き合いもこの頃からだと後に語っていた。
彼が東京へとやってくるのはその後のことである。

前史

大学に進学した僕は、同人誌活動を始めた。
高校漫研OG会(部員は圧倒的に女子が多かったので)の即売会参加に付いて行ったのは、当時武蔵小杉でやっていたMGM。小さな創作オンリーのイベントだったが、そこには『楽書館』や『アップルBOXクリエート』といった「ぱふ」や「Comic Box」でも見たことのある有名なサークルも参加していた。
主に「ぱふ」を愛読していた当時の自分にとって、そこに名前の出ている同人作家たちは尊敬と憧れの対象でもあった。

青木俊直青山剛昌MEIMU、そして西崎まりの。

この四つの名は、当時の僕にとってはヒーローの響きを持っていた。
四者に共通していたのは、既成のマンガ表現とは異質の、極めてアーティスティックな作品を創作していたこと。
中でも西崎まりのとの遭遇は自分に大きなカルチャーショックを与えた。
繊細で細密なタッチと、美少女キャラとの融合は当時でもかなり新しい作風であったように思う。
その作品を始めて目にしたのは、おそらく「ぱふ」の見開き2ページの同人誌紹介ではなかったかと思う。当時まだ香川大学に在籍していた(と思う)まりの氏は次第に同人誌界で注目をされ始めていた。
同じ「ぱふ」だったのか、それとも「Comic Box」あるいはその前身の「ふゅーじょんぷろだくと」だったのか記憶が定かではないが、氏の同人作品が掲載され、それも自分は目にしている。
たしか『風街ろまん』という作品だったと思う。はっぴぃえんどのアルバム名。もっとも、そんなことも後に知ったのだが。
その頃から、僕の中では「西崎まりの」という絵描きの名はしっかりと頭のメモリーに記憶されることになった。
先に挙げた四人の作家のうちでも、西崎まりのがいちばんの好みの作家だった。

時に、昭和60年。
まだ「萌え」という言葉も知らず、エロ漫画がようやく「美少女まんが」として同人即売会に萌芽を現しはじめた頃だった。

   *   *   *   *

青木俊直氏は主にアニメーション作家として現在は活動、NHKみんなのうた」やテレビ朝日やじうまプラス」の『やじおくんとうまこちゃん』のデザインなどを手がけている。
青山剛昌氏は、言わずと知れた『名探偵コナン』の作者。大人気漫画家だ。
MEIMU氏は「キカイダー02」などの作品でも知られる実力派となっている。

だが…彼だけは、この日本漫画界という歴史から忘れられようとしている。
西崎まりの。
山田章博の弟子。うたたねひろゆきの師匠。
本人は酒席での肴話、とは言っていたし、実際もその程度であったのも本当だが…
が、この有名な二人の間に、この名があったのは紛れもなき事実。
二人には決して劣らぬほどの実力を持ち乍ら、不遇のまま世を去ってしまったひと。
僕にとって、兄のような存在だった。



ようやく書きはじめることができました。
どうやって書いたらいいのか、また正確な年代や画像資料などもあったほうがいいのか…などと悩むうち、時間だけがどんどん過ぎていってしまうのに気付いて、とにかくもそんな正確さや時間軸は期さなくてもいいから、私の記憶にあるとおりのことを書き記していこうと決めました。

あまり頻繁に更新はできないかもしれませんが、これから私の中の西崎まりのの記憶を辿っていこうと思います。

事務所でひとり酒を飲んでいて、
ふいにまりのさんのことを思い出し涙を流してしまった。

駄目だなあ、やっぱ。
誰かに電話をしたいとか、話がしたいとか、
そういうとき、自分にとってはまりのさんがいちばんの相手だった。

今、そんなことをふと思い立っても、もう誰もいないなんて。
こんな悲しいことはない。
今年はもう三回忌を迎えるのにね。
自分でも、とっくに乗り越えたと思ってたのだけれど…

このブログがぜんぜん更新できない、てだけで、やっぱ自分はまだあんたの死について昇華できてはいないっていうことなんだよなぁ。


でも約束します。
あなたの三回忌までには、何かをきっと形にすっからね。


あんたはボクの守護神になった…って、勝手に思ってるからサ。