ぱふ(その2)

「おともだち倶楽部」創刊準備コピー本

「ぱふ」で「いからち・4」がもっとも評価された点は、「読んでほしい」のに「本が売れない」というジレンマを前面に押し出した編集方針だった。その苦楽を本として現した部分に興味を持たれたらしい。
どういった形にせよ、「いからちの会」が外で認められたのは初めてのことだった。
だが、この一件で僕の会での発言力が増し「いからち」もより良い方向へと向かったのかというと決してそうではなく、事実はむしろ逆の結果を産んだ。
たとい「ぱふ」にちょっと紹介されたからといって、事態は好転はしない。相変わらず「いからち」の本は売れなかった。

僕は次の段階に着手する。
サテライトの設置、である。具体的には既に創設していた個人サークル「迷羊社」もその一つだが、更により発展的なものを考えていた。
先の山下友美と、他の漫研と天文研を兼部していた者ふたり、合わせて4人が集まって新たに本を作ろうという計画。
云わば精鋭部隊の創設である。
4人のメンバー、ということで僕の頭にはあの「THUBAN」があったのは事実だろう。
僕としてはこのユニットで「THUBAN」を目指していた。

「おともだち倶楽部」と名付けたそのサークル(今考えると、明らかな矛盾を孕んだ命名だ)は、だが理念だけが一人歩きをしてしまう。

そして「いからち」内からも、山下をはじめ他のメンバーを誘い新サークルを創るのは『引き抜き』だ、という猛烈な批判を浴びてしまう。自分としてはよりフットワークの軽いこのユニットを動かすことで「いからち」へ客を呼び込んでいこう、という考えだったのだが。
(プロレスファンなら『新日本プロレスゼロ(ゼロワンの前身)』を旗揚げした頃の橋本真也の立場、と云えば判りやすいだろうか…? かえって判り辛いかも)

正直『草野球チーム』である「いからちの会」に限界を感じ始めていたのも事実だ。だがこれをきっかけに「いからち」への情熱は急激に醒めていく。
と同時に、大きな疑問も沸き上がってくる。
はたして「いからち」は、『売れたい』『読んで欲しい』と云う前に、『買ってもらう』『読ませる』べく努力をしているのだろうか?
その努力もせずにただ嘆くのみでは、何にもならないのではないだろうか、と。

どんな同人誌だって、商業誌よりも高い値を出して買ってもらっているのなら、作り手はそれに責任を負うべきだろう。
「いからちの会」をはじめ創作系にはそれを考えていない場合が多い。
それは甘えである。
果たして自分も買う側にあったとき、どんな同人誌に代価を支払っていたか--------そう考えた時、自ずと答えは出るはずなのだ。
自分の買いたいと思えないような本を僕は作りたくはない。

「いからちの会」を離れよう、と僕は決心した。
(画像は「おともだち倶楽部」創刊準備号のコピー誌。「しづか透」が当時の浦嶋のPN)