奴婢訓(その2)

しばらく更新を休んでいる間、今後の構成について考えをまとめていました。
かつて私の高校時代、地理はAとB、という教科に分割されていました。いま現在それがどうなっているのかは知りませんが、それぞれ「地史」と「系統地理」という、分類方式による教科目でした。
歴史とは多面的なもの。時系列順に綴っていこうかとも思いましたが、それを網羅することよりも、それぞれの焦点を絞りつつ進めていくことを選ぼうと考えています。「地史」よりも「系統地理」を重視しよう、ということでしょうか。
よって、以後の内容について時間が前後していくこともあることをご了承ください。



平成に入って早々駆け巡った綾瀬の殺人は、発覚後空前絶後の残忍さを露呈していった。
現実が虚構を飛び越えた事件だった。どんなフィクションも太刀打ち出来ないほどの。
この事件の影響により各出版社は自主規制に入ってしまう。レイプものは御法度となった。
「奴婢訓」の企画そのものも、商業ベースでの発表はほぼ不可能となってしまう。
事件のほとぼりが醒めるまでダメだな---------そう考えていた。
それでも、まったく望みが消えたのかとい云うとそういうわけでもなかった。この時点では。たいがいにおいて、世間が事件のことを口にしなくなれば徐々にエロ表現も復旧するはずだった。

ところが半年後、それを更に上回る衝撃が出版界を襲う。

平成元年夏。ちょうどコミケの直前。ひとりの「おたく」が逮捕された。名を宮崎勤という。
彼の名を冠した、連続幼女殺害事件の発覚だった。

彼がコミケにもサークル参加する「おたく」だったということで、世間の矛先はロリコン漫画に向かう。
逆風に曝された出版社は、悉く雑誌から凌辱系を排除していく。自己防衛のために。




いったんは発表そのものが袋小路に入ってしまった「奴婢訓」。
時を経て、次第に自主規制の綱も緩んできたものの、既に僕のこの世界での位置は「ちょっと軽めの、ラブコメ調えっち漫画を描く作家」というイメージが固まりつつあり、本格凌辱ものなどを描ける機会は望めなくなっていた。
だが、僕はどうしてもこの作品を描きたかった。
商業誌がダメ。それならば、何のしがらみも無い場で発表すればいい。
一年後の平成2年、夏コミ。「奴婢訓」を上梓し、僕は持って行った。

予想を大きく上回る反応。「浦島さんって、こんなのも描くんですか?」とも言われた。今まで僕の「軽めのラブコメ」を見続けていた人達にとっては意外だったのかも知れないが、これも紛れもなく自分だった。
挨拶のついでに知己のサークルなどに自本を献呈するのは即売会での恒例だが、この本も多くの知人たちに配って回った。もちろん、まりのさんにも。

数日後。コミケの打ち上げを兼ね、五反田のまりのさんのマンションで飲み会があった時だったと記憶している。
そこに居たまりのさんが、だしぬけに僕に言った。
「そう云えば、こないだ貰った本ですけど…浦島さんって、寺山修司が好きなんですか?」
この投げかけられた一言が、僕と西崎まりのとを深く結びつけるきっかけとなった。

僕とまりのさんが、本当の意味で出逢った瞬間だった。