誰が殺した、コミックロビン? (その1)

もちろん、「奴婢訓」に至るまでの間、まりのさんと僕との関係が進展していなかったわけではない。
正確なところは既に記憶を欠いてしまっているが、様々な状況から推測して、僕が初めてまりのさんの住む五反田へ行ったのがこの頃だったろうとほぼ確定できる。
たぶん昭和64年(平成元年)新年会。そのあたりで僕はまりのさんのマンションに連れて行かれているはずだ。
その前年末に司書房編集部の忘年会が行われているのだが、そこにはまりのさんは顔を出していない(と、思う)。
「コミックラム」の山田編集長に率いられての、その忘年会への「ラム」作家陣の出席はと云えば…僕と高塚さのりくらい、という状態だった。
今は「ドルフィン編集部」であり、それなりに大きくなっているとは思うが、あの当時は「コミックラム編集部」だった部署は、社員と云えば現ドルフィン編集長の山田氏ひとり。あとは前出のMを含む学生くずれのアルバイト、といった状況。
そもそもが一時代を築いたエロ劇画誌「エロス」「エロススペシャル」のオマケのような部署であった。どこの出版社でも、エロ漫画は、まだ黎明期を迎えたばかりの新生のジャンルだった。

いくら司の編集部に入り浸っていたとは云え、一介のアシに過ぎない僕がそうそう他の作家と馴れ合えるべくもない。まともにまりのさんと会話を交わすようになったのも僕がデビューしてからの筈だ。まりのさんの家に行ったのも、Mの仲介だった。
あるいはデビュー前後、早瀬たくみの家で同席しているのかもしれないが。

僕と高塚と、山田編集長をはじめ、M、まりのさん、早瀬&いぶきのぶたか等とは仕事上のつきあいというよりも、それ以外での遊び仲間だった。
まりのさんが亡くなったとき、まず真っ先に思ったのがこの「五反田時代」だ。
不思議とまりのさんの周りには人が集まってきた。それは、彼自身が孤高でありながら独りではいられないという性格なのだ、と僕は後に気付くのだが。どちらかと云うと独りでいることのほうが多い僕と、うまくバランスが合っていたのかもしれない。
まりのさんが中心となった仲間が集まり、飲み明かし…平成元年から2年のあの時代が、いちばん楽しかった。希望に満ちた、幸福な季節だった。



平成元年も夏が近づく頃、司書房は「ラム」及びその姉妹誌の「コミックルナ」を続けて廃刊にし、新雑誌へと移行することになった。雑誌の名は「コミックロビン」。体裁もそれまでのA5平綴じからB5中綴じ本へ。
ちょうどコミックハウス編纂の「ペンギンクラブ」がかなりの勢いを見せていた頃。各出版社もそれに倣ったように、それまでのA5からB5中綴じへスイッチしていっていた。エロ漫画誌が爆発的な拡大へと向かう前兆だった。
西崎まりのはこの雑誌でトータルなデザイン・レイアウトを担当することになった。編集部へ行くたびに、山田さんと打ち合わせをするまりのさんの姿を見かけた。
「ラム」「ルナ」で育った僕も、その創刊号に執筆させてもらうことになった。中2色カラーを含む20頁を任された。
夏コミの直前だったと記憶している。だから7月の下旬あたりだったのだろう。「コミックロビン」は創刊された。
その筈だった。
だが…発売日のまさにその当日。午前中。
突然山田編集長から電話がかかってきた。近くまで来ているので、会いたいと言う。
車で来た山田さんの助手席に乗せられ、だらだらとその辺りを流しながら、やがて顔色の悪い山田編集長がぼそりと呟いた。
「実はさ…『ロビン』が出なくなっちゃったんだ…」