美少女症候群

昭和60年。
その頃、創作同人の世界ではひとつのエポックメイキングな作家とサークルが出現した。
厦門潤とその仲間4人のつくる「THUBAN」である。
その同人とは思えない作品のクオリティの高さと、一冊の本としての構成力は特筆ものだった。
あの時代、創作同人は商業誌とは別の場所でひとつのピークを迎えようとしていたのではないかと思う。
この「THUBAN」以外でも、MEIMU氏の所属する「TEAM COMPACTA」というサークルがMADA氏という優れたデザイナー・編集人の手により非常にハイエンドな同人誌を制作していた。
「THUBAN」のメンバーの年齢は僕よりほんのひとつ上。ほぼ同世代の作家たちが即売会という海の中でしのぎを削っていた。こういった優れた同人誌に触れ、『デザインワーク』や『ディレクション』、『エディティング』といったものへの興味が次第に芽生えていった。
いつかこの「THUBAN」や「COMPACTA」のような同人誌を作りたい…そんな漠然とした憧れを抱いた。
個人サークル「迷羊社」を立ち上げ即売会に参加し始めた自分がB6サイズのミニコピー本を作り、全手描き表紙ということをしていたのも、厦門潤氏が以前に同じことをやっていたのを知ったからだった。

この頃、西崎まりのは様々なサークルの同人誌に引っ張りだこでゲスト寄稿していた。僕はそういった本を即売会で見つけては買い集めていた。

純創作と美少女もの・エロを含むロリコンといったジャンルはまだ未分化で、創作系の作家でもかわいい女の子の絵を描く者たちはそちらに分類されてしまうこともたびたびおこっていた。
そんな描き手たちを紹介する雑誌なども「ぱふ」などの専門誌だけではなく「レモンピープル」や「ロリポップ」などロリ系誌も同人誌コーナーを作り掲載することも増えてきていた。
まりのさんもそんな混沌とした状況下で、いつしか「美少女漫画」にカテゴライズされていた…思えば、ここで「こちら側」に来てしまったことが彼にとっては結果として後の悲劇を招いたのではないかとも感じる。
出逢いとは奇異な偶然が重なって起きるものだが、僕にとってはこの分岐点がまりのさんとの関係を導き寄せてくれた幸運ではあるが、彼にとっては幸せだったのか。
こうした結末を迎えてしまった今では、わからない。



こうした出版社がこんどは同人誌を紹介するムック本を発行し始めていく。
「ComicBox」を発行していたふゅーじょんぷろだくとが「美少女症候群」という本を発刊したのもこの頃である。
この一冊により、美少女エロというジャンルは明確に分類され、一気にブームに火がついていったように思う。

まさに『群雄割拠』という言葉がよく当てはまる時代状況だった。コミケでは亜麻木桂やサークル「とろろいも」といったところが行列を作り、幅を利かせ始めていた。