漫画ブリッコ

大塚英志が編集長の『漫画ブリッコ』は、かがみあきら(あぽ)、藤原カムイ白倉由美といった作家陣を配し非常にエキセントリックな誌面を展開していた。
「三大少年誌の一角を目指す」というキャッチフレーズも斬新だった。
ブリッコの文章コラムには評論家の竹熊健太郎も執筆していた。彼のそのコーナーでは「ふくしま政美研究家」の宇田川岳夫といった人物も紹介されたりもしていた。

当時僕はこのあたりの描き手たちをかなり熱心に追いかけていた。中でも白倉由美は単行本発刊記念のサイン会にも足繁く通うほど。
白倉氏はサイン会のたびに自筆の原稿をプレゼントしてしまうファンサービス溢れた方で、自分もその恩恵に与った。
彼女の珠玉の名品「セーラー服で一晩中」のラストページの原画は、僕の手元にある。

ほどなく漫画ブリッコは編集長が斉藤O子氏へとバトンタッチ、ブリッコはやがて『ホットミルク』へと移行する。

大学に入っての初日、オリエンテーション漫研がないのを知った僕は仕方なくSF研へと足を運んでみると、先にひとりの新入生が来ていた。話をしてみると同じ建築学科の学生だった。
それが、杏東ぢーなだった。

SF研にはふたつ上の学年に後藤寿庵がいた。
O子氏の時代となったホットミルクで見開き2頁で『宇宙刑事モーモー』というちょっと不条理なギャグをちりばめた漫画を掲載していた。

やがてこの後藤さんを御輿に、学内でも漫研を結成しようという動きが興る。翌年同好会として承認、その次の年には正式に部活に昇格した。その時の文化部会サークル連合会の会長はSF研より送り込まれた漫研兼部の自分である。
東京電機大学工学部の漫研は、このような者たちによって創設されたのである。
(これを見ている現役部員諸君よ、心しておくように)



まりのさんとの想い出を語るつもりが、話がずいぶん横道に逸れていってしまいなんだか当時のロリコン漫画家列伝のような状況になってきてしまいました。
けれど、こうした背景も同時に活写しないと鮮明に浮き上がってはこないと思うのです。ご容赦を。
もうちょっとだけ横道におつきあいください。