誰が殺した、コミックロビン? (その2)

「『ロビン』が出なくなっちゃったんだ…」
山田編集長から告げられたそれはあまりにも意表を突いた一言だった。
都の条例だったかに「有害図書指定」というのがある。
たとえば月刊誌においてこれに抵触したと見なされた場合、一度目は警察署に「お呼び出し」がかかり厳重注意だが、三度連続してひっかかると今度はいよいよその雑誌は「有害図書」として指定を受け、向こう三ヶ月だったか、『未成年にはお売りできません』という帯なりマークをつけねばならなくなる。
これをやられると、流通やコンビニ等の小売り店が置くのを嫌がるのだ。
流通に乗せられない、ということはつまり実質的には廃刊を余儀なくされてしまうということだった。
かつてこれを喰らった例として久保書店レモンピープル」があった。彼の誌はどうにか廃刊は免れたのだが。
だが通常、それは発行された出版物に対してされるもので、「コミックロビン」は発行されたどころか、今回新創刊される雑誌だった。
当然「お呼び出し」なんぞはかかってはいない。
まさに鳩が豆鉄砲を喰らったような状態の僕に、山田さんは続けた。
「…印刷が上がって、部長にホンを見せたら…"消し"が少なすぎるって…で、すぐに会議にかけられて…ストップがかかっちゃったんだ」
"消し"とは局部描写の修正のことだ。山田さんにとって「ロビン」は実質的に初めての責任編集となる雑誌だった。言ってしまえば、その意気込みの度が過ぎてしまったのだろう。
その日、山田さんは「ロビン」の断裁に立ち会い、その足で各作家に説明しに走り回っていたのだった。
「ロビン」はB5版だったので、それまでの(確か1万5千部くらいだった)「ラム」「ルナ」よりも遙かに発行部数は多かったはずだ。新創刊だし、3〜5万は刷っていたのではないだろうか。
ちなみにこの当時のトップを誇っていた辰巳出版ペンギンクラブ」は公称18〜20万部。
「コミックロビン」は、流通する前に自主規制によって闇に葬られた本となった。

否、だが極く極くわずかにだが、販売した事実はあった。
世には発売日の前に特定の書店に本が並ぶ「早売り」というのがある。細かいシステムは知らないが、この「早売り」が「コミックロビン」でも行われていた。神保町のコミック専門の老舗・高岡書店。
発売前日、そこで「ロビン」が並んでいたのを僕は目撃している。もちろん、その翌日には回収されてしまったはずだが。
そこで販売されてしまった数十冊と、山田さんが執筆作家に渡すために断裁のときに密かに抜き取った分、おそらくは併せて50冊前後。残ったのはそれだけ。
今この本を見てみると、これがどうして"消し"が少ない、過激すぎる、となるのか判らないほど大人しく見える。昨今ではもっともっと激しい内容のモノが平気で毎月大量に流通しているということだ。
確かにゾーニングも一般化し、15年以上前とは状況も違うのだろうが…
エロ表現の許容・認知度も、時代と共に変わる、といういい例である。


実質的に1000万から1500万円程度の損害を会社にもたらしてしまった山田さんは、辞表を書いたらしい。だが逆に「損を取り戻すまでは辞めさせねーぞばかやろう」と減首を免れる。

数ヶ月を経て、司書房からは「コミックドルフィン」が創刊。
創刊時、表紙イラスト・うめつゆきのり、デザイン・レイアウトには西崎まりの。「ロビン」とまったく同じコンセプトだった。もちろん、責任編集者は山田さん。
今も表紙の隅にあるのかどうかは知らないが、「ドルフィン」の創刊号にはイルカのマスコットが描かれていた。「ロビン」でも作られたコマドリのマスコットと同じく、これを作ったのは西崎まりのだったと僕は記憶している。もちろん、表紙の『ドルフィン』のロゴも。

だがこのゴタゴタの期間に、僕はコミックハウスからのオファーを受け、やがて同社編集・メディアックス発行の「花いちもんめ」へと移籍していく。司書房コミックハウスとは、コミックハウスの宮本社長が山田さんをマージャンに誘いにわざわざ司編集部にやって来るほど目と鼻の先にあったが、僕が司に足を運ぶことは次第に減っていった。
山田さんとまりのさんとの仲も、理由は知らないがまりのさんが(おそらくギャランティ、予算についての折り合いからだったと想像するが)「ドルフィン」のデザイナーを降板したころをきっかけに次第に疎遠となり、西崎宅には顔を出さなくなっていく。

コミックドルフィン」は現在も続く老舗雑誌となった。今でも高塚さのりは司の編集部に出入りし、「ドルフィン」の巻末目次ページに四コマ漫画を描いている。


あれから15年以上の時が流れた。もうこの顛末も時効だろう。

誰が殺した、コミックロビン? (その1)

もちろん、「奴婢訓」に至るまでの間、まりのさんと僕との関係が進展していなかったわけではない。
正確なところは既に記憶を欠いてしまっているが、様々な状況から推測して、僕が初めてまりのさんの住む五反田へ行ったのがこの頃だったろうとほぼ確定できる。
たぶん昭和64年(平成元年)新年会。そのあたりで僕はまりのさんのマンションに連れて行かれているはずだ。
その前年末に司書房編集部の忘年会が行われているのだが、そこにはまりのさんは顔を出していない(と、思う)。
「コミックラム」の山田編集長に率いられての、その忘年会への「ラム」作家陣の出席はと云えば…僕と高塚さのりくらい、という状態だった。
今は「ドルフィン編集部」であり、それなりに大きくなっているとは思うが、あの当時は「コミックラム編集部」だった部署は、社員と云えば現ドルフィン編集長の山田氏ひとり。あとは前出のMを含む学生くずれのアルバイト、といった状況。
そもそもが一時代を築いたエロ劇画誌「エロス」「エロススペシャル」のオマケのような部署であった。どこの出版社でも、エロ漫画は、まだ黎明期を迎えたばかりの新生のジャンルだった。

いくら司の編集部に入り浸っていたとは云え、一介のアシに過ぎない僕がそうそう他の作家と馴れ合えるべくもない。まともにまりのさんと会話を交わすようになったのも僕がデビューしてからの筈だ。まりのさんの家に行ったのも、Mの仲介だった。
あるいはデビュー前後、早瀬たくみの家で同席しているのかもしれないが。

僕と高塚と、山田編集長をはじめ、M、まりのさん、早瀬&いぶきのぶたか等とは仕事上のつきあいというよりも、それ以外での遊び仲間だった。
まりのさんが亡くなったとき、まず真っ先に思ったのがこの「五反田時代」だ。
不思議とまりのさんの周りには人が集まってきた。それは、彼自身が孤高でありながら独りではいられないという性格なのだ、と僕は後に気付くのだが。どちらかと云うと独りでいることのほうが多い僕と、うまくバランスが合っていたのかもしれない。
まりのさんが中心となった仲間が集まり、飲み明かし…平成元年から2年のあの時代が、いちばん楽しかった。希望に満ちた、幸福な季節だった。



平成元年も夏が近づく頃、司書房は「ラム」及びその姉妹誌の「コミックルナ」を続けて廃刊にし、新雑誌へと移行することになった。雑誌の名は「コミックロビン」。体裁もそれまでのA5平綴じからB5中綴じ本へ。
ちょうどコミックハウス編纂の「ペンギンクラブ」がかなりの勢いを見せていた頃。各出版社もそれに倣ったように、それまでのA5からB5中綴じへスイッチしていっていた。エロ漫画誌が爆発的な拡大へと向かう前兆だった。
西崎まりのはこの雑誌でトータルなデザイン・レイアウトを担当することになった。編集部へ行くたびに、山田さんと打ち合わせをするまりのさんの姿を見かけた。
「ラム」「ルナ」で育った僕も、その創刊号に執筆させてもらうことになった。中2色カラーを含む20頁を任された。
夏コミの直前だったと記憶している。だから7月の下旬あたりだったのだろう。「コミックロビン」は創刊された。
その筈だった。
だが…発売日のまさにその当日。午前中。
突然山田編集長から電話がかかってきた。近くまで来ているので、会いたいと言う。
車で来た山田さんの助手席に乗せられ、だらだらとその辺りを流しながら、やがて顔色の悪い山田編集長がぼそりと呟いた。
「実はさ…『ロビン』が出なくなっちゃったんだ…」

奴婢訓(その2)

しばらく更新を休んでいる間、今後の構成について考えをまとめていました。
かつて私の高校時代、地理はAとB、という教科に分割されていました。いま現在それがどうなっているのかは知りませんが、それぞれ「地史」と「系統地理」という、分類方式による教科目でした。
歴史とは多面的なもの。時系列順に綴っていこうかとも思いましたが、それを網羅することよりも、それぞれの焦点を絞りつつ進めていくことを選ぼうと考えています。「地史」よりも「系統地理」を重視しよう、ということでしょうか。
よって、以後の内容について時間が前後していくこともあることをご了承ください。



平成に入って早々駆け巡った綾瀬の殺人は、発覚後空前絶後の残忍さを露呈していった。
現実が虚構を飛び越えた事件だった。どんなフィクションも太刀打ち出来ないほどの。
この事件の影響により各出版社は自主規制に入ってしまう。レイプものは御法度となった。
「奴婢訓」の企画そのものも、商業ベースでの発表はほぼ不可能となってしまう。
事件のほとぼりが醒めるまでダメだな---------そう考えていた。
それでも、まったく望みが消えたのかとい云うとそういうわけでもなかった。この時点では。たいがいにおいて、世間が事件のことを口にしなくなれば徐々にエロ表現も復旧するはずだった。

ところが半年後、それを更に上回る衝撃が出版界を襲う。

平成元年夏。ちょうどコミケの直前。ひとりの「おたく」が逮捕された。名を宮崎勤という。
彼の名を冠した、連続幼女殺害事件の発覚だった。

彼がコミケにもサークル参加する「おたく」だったということで、世間の矛先はロリコン漫画に向かう。
逆風に曝された出版社は、悉く雑誌から凌辱系を排除していく。自己防衛のために。




いったんは発表そのものが袋小路に入ってしまった「奴婢訓」。
時を経て、次第に自主規制の綱も緩んできたものの、既に僕のこの世界での位置は「ちょっと軽めの、ラブコメ調えっち漫画を描く作家」というイメージが固まりつつあり、本格凌辱ものなどを描ける機会は望めなくなっていた。
だが、僕はどうしてもこの作品を描きたかった。
商業誌がダメ。それならば、何のしがらみも無い場で発表すればいい。
一年後の平成2年、夏コミ。「奴婢訓」を上梓し、僕は持って行った。

予想を大きく上回る反応。「浦島さんって、こんなのも描くんですか?」とも言われた。今まで僕の「軽めのラブコメ」を見続けていた人達にとっては意外だったのかも知れないが、これも紛れもなく自分だった。
挨拶のついでに知己のサークルなどに自本を献呈するのは即売会での恒例だが、この本も多くの知人たちに配って回った。もちろん、まりのさんにも。

数日後。コミケの打ち上げを兼ね、五反田のまりのさんのマンションで飲み会があった時だったと記憶している。
そこに居たまりのさんが、だしぬけに僕に言った。
「そう云えば、こないだ貰った本ですけど…浦島さんって、寺山修司が好きなんですか?」
この投げかけられた一言が、僕と西崎まりのとを深く結びつけるきっかけとなった。

僕とまりのさんが、本当の意味で出逢った瞬間だった。

訂正

さて、ここまで書き進んだところで前項において事実誤認、というか資料や時代を検証してみたところ、かなり自分の頭の中の思い込んでいたことと違うことに気付きました。
現在私のHP中の作品リスト
http://www.justfitweb.com/works/history.htm
を見乍ら、当時の時系列を整理しているところです。

いったいいつまりのさんと出会ったのか、とか、
いつごろから五反田に通うようになっていったのかとか…
もうすこし正確なところを思い出そうとしています。
そんなわけで、ちょっとだけ時間をください。

ひとまず前回の後半部分を訂正の上、次の項に続けていこうと思います。
ご容赦ください。
尚、今後も間違った記述のあった場合は随時訂正していきます。
ご指摘等ありましたらよろしくお願いいたします。

奴婢訓(その1)

実物のまりのさんを見た第一印象は
「オッサンじゃん…」だった。
たとえば僕も大好きな作家の松原香織氏なぞは、ある意味あの絵柄のとおりのイメージの、スタイリッシュで、いかにも繊細そうな風貌であった。
僕が「エロ漫画家」になろう、と思ったひとつの理由にこの松原氏の存在が大きい。氏の登場はエロ漫画というジャンルの幅の広さを示していた。隠さずに言うが、自分が絵柄を変える際、氏の影響を最も受けた。アイドルを追いかける如く、それほど松原香織に熱中していた。
もっとも、当初は本当に女性だと僕も思っていたが。
だが、西崎まりのはと云えば明治時代の書生のようなザンバラ頭と無精髭、「今時ねーよ」というほどの牛乳瓶の底のようなぶ厚い黒縁メガネ(彼はとても視力が弱かった)。チェーンスモーカーで常に煙草を手放さず、昼から缶ビール(しかも720mi !)をあおっている…
とてもこの人があの繊細な絵を描いているとは思えなかった。

けれど、そのくせ何故かとても女にモテた。
飲み会をすれば必ず脇に誰かしら女性が付いたりしていた。
いつも黒いコートを纏い、煙草を吸いながら歩くその姿はとてもカッコよかった。

それを見て、僕はまりのさんに『ボヘミアン』を感じた。
憧れだった。普段は「まりののおやじ」と僕は表していたけど。



『奴婢訓』というのは、寺山修司の戯曲の題名である。
浪人時代から僕は次第に寺山に傾倒し、氏の劇映画や実験作品を当時あった高田馬場東映パラスなどに通い詰め観まくっていた。残念ながらその戯曲は観てはいないが、『奴婢』という言葉の妖しい響きが気に入り、自作のタイトルに拝借してしまった。
物語は、何者かに監禁された少女が日々凌辱をされ続けるというもの。

ロリポップ」では「カズンズ」の短期連載が始まった。センチメンタルなエロスコミックを続けて描くことになり、司ではそれとは違った毛色のものを出そうと考え、この「奴婢訓」を持ちかけた。
が、編集長の山田さんはこの企画をあっさりと一蹴した。「内容がクラい」というのが理由だった。
当時の購買層にはレイプなどの凌辱的な内容は人気が無かった。凌辱ものが幅を利かす昨今とは雲泥の差である。
仕方なく、僕はいったんこの企画を眠らせることにする。もう少し時間が経ったら改めて出してみようと考えた。
ところが------------------

平成元年3月末、未曾有の事件が発覚する。
日本中を震撼させた、綾瀬女子高生監禁強姦拷殺コンクリート詰め死体遺棄事件、である。

そして、同じ頃都内各地では幼女たちが神隠しに遭ったように消えていた。

エロ漫画界に嵐が近づいていた。だが、それを予測していた者は誰もいなかった。更に大きな嵐がやって来ることも。
[4/25改訂]

カズンズ

その日、午前四時。
電話の着信音で僕はふいに眠りから呼び戻された。相方の結城らんなからのコールだった。
「まりのさん、死んじゃったんだって!? 今、友達からメールが来たんだけど…」
「……ええ?」
仕事場で横になって一時間も経っていなかった。頭が一気に覚醒した。
慌ててネットを繋ぎあちこちの関係サイトを開いていき、まりのさんのユニット「NURK TWINS」のBBSに辿り着く。
一緒にユニットを組んでいた後藤さん(松本惇)が書き込んでいた。
事実だった。前日、病院で息をひきとったという。
正直、ショックは無かった。ここ数年の彼を見ていて、覚悟をしていたからだ。

平成16年、10月12日。
西崎まりのが死んだ。
僕にとって、兄のように慕っていた存在だった。



いったいいつ頃まりのさんと知り合ったのか、ということになると記憶がはっきりしない。
当時、司書房にMという編集アルバイトがいた。彼は西崎まりのや松原香織など「ラム」に執筆している作家のところに出入りしていた。(早瀬たくみの作品中『ぷよ太』というキャラクターでも登場している。)彼は高塚さのりと意気投合、高塚邸にも顔を出すようになる。
そのMからの紹介だったのか、或いは編集長・山田さんからだったのかは既に記憶が定かではないのだが、僕が司書房で描くようになるよりも前には既に紹介されていたのは事実だと思う。
十月革命Ⅱ』という同人誌を出したあの年の夏コミの時には既知だったはずだ。
あの当時のまりのさんは「ラム」でも描いていた速水裕氏の師匠的存在で、同じ夏コミで出た同氏の同人誌『PLASTIC TRIP』の装幀デザインを手がけていた。その直後五反田のまりのさんのマンションでその本の在庫の山を見た記憶がある。
    *   *   *   *
僕の記憶の中の『ストーリー』では、いつもの様に編集部に遊びに行った折、そこに居たまりのさんを山田編集長から
「あ、こっち西崎まりのさん。西崎さん、彼、森林林檎くんのトコでアシをやってる浦島くん」
といった紹介をされたのだと考えている。
昭和63年。おそらくは、初夏。すでにその頃になると高塚さのりと共に編集部で晩飯にありつく程入り浸っていたので、そんな機会もあったのだろう。
もちろん当時は僕のほうはファンであっても、まりのさんにとっては一介のアシスタントに過ぎない。

直後くらいから先のMの仲介でまりのさん宅「五反田雀荘」に高塚が面子合わせで通うようになる。山田編集長、早瀬、いぶきのぶたか辺りがメンバーだった。僕は麻雀をしないので、せいぜい付いて行くだけ。
やがて僕はその「ラム」に拾われデビューするが、暫くはそんな関係だった。

その頃、僕は「ロリポップ」の川瀬さんから「えっちなんだけど、少女まんがの様な心理描写のあるお話を」という要請を受ける。ラム本同人誌『十月革命』で、当時は殆ど存在しなかったそうした描写を武器に「目立つ」戦略をした自分にとってはまさに打ってつけの素材だった。当時、エロ漫画商業誌でそんな漫画はほぼ皆無だったと云っていい。白倉由美はより少女漫画的であり、所謂「男がヌける」漫画というものとは違った。
平成元年、春。短編「ハンサム・ガール」を経て、全三回の中編「カズンズ」を僕は執筆する。
正直あの時代、誰でもデビューすれば「描けば載る」ような状況だった。出版社もいったい何が受けるのか手探りだった。その中で明確に「こんなものを」という編集の指針を示した川瀬氏を僕は評価している。
と同時に、この「カズンズ」のような、こういった世界が僕の描くべきもの、読者に提供していくべきものなのだ、ということをはっきりと自覚させてくれた。デビュー半年足らずで己れの立ち位置を自覚させてもらえたことは後の自分に大きな力となった。
もっとも、あの時代がそのような作品を描かせてくれることを許さなくなっていったが。各雑誌は「当たり障りの無い軽いラブコメタッチのエロ」を求めるようになる。
そんなセンチメンタリズムを前面に出した作品が認められるのは、田中ユタカの登場まで待たなくてはならなかった。

望まれるまま僕は他の作家たちと同様の「軽いタッチのラブコメエロ」を量産するようになる。

が、作家とは我儘なものだ。
僕は自分の作家性を押し出した作品を描きたいと考えるようになっていく。
それは、「カズンズ」とはまた違う、凌辱的な作品だった。
「奴婢訓(ぬひくん)」というタイトル。僕はその企画を司書房に持っていった。

水先案内、あるいは西崎まりのを記述する試み

誰でも一本くらいは小説が書ける。自分のことを記せばいいからだ。

そんなことは千も万も承知している。
だから、残しておきたいとは思いながら、あえて表に出そうという気も無かった。少なくとも、生(き)のままでは。他人の赤ん坊のホームビデオを延々だらだらと見せられるほど拷問的に辛いことは無い。それと同じ行為だからだ。
けれど、朋友・西崎まりのの死を突きつけられ、どうしても書き残しておきたいと思った。まりのさんの死は、僕にとっての青春時代というものの終焉でもあったからだ。
完結したものには検証が必要である。僕は、僕の青春というものを検証する試みをしたかった。

書き始めてみると「プロローグ篇」では当時の皆アマチュアの大学生だった周辺から男性向同人ジャンルの黎明、そこから商業ベースで『エロ漫画』が成り立っていくさまを描くことになった。同時に、僕自身がその只中でいかに奔騰(ほんとう)していったかの過程を整理することができた。

ここに記している内容について、当時を識る者にとっては『事実と違う』と感じることもあるかもしれない。
が、僕が書き残しておきたいのは、あくまでも「僕にとっての真実」だ。
歴史とは、それを観察していた者からの視点で都合のいい事象のみを取捨選択し辻褄を合わせた一連の『ストーリー』に過ぎない。僕は僕にとっての『辻褄の合ったストーリー』をここに記したいと考えている。お赦しいただければと思う。

それでも、明らかな事実誤認といった箇所についてはご指摘をいただきたい。そうした場合は訂正をさせていただくこともあります。
また、配慮はしているつもりであっても、本Blogの内容について、記されている当該及び関係者に不快な表現や記述についての申し出があった場合は削除・変更を検討いたします。ご連絡をお願いします。



正直を云うと、これから記述する西崎まりのとのことについても、どこまで書いていいものか、と悩んでもいます。
既に鬼籍に入って一年と半年。間もなく彼の三回忌を迎えます。
もうそろそろ、書いてもいいこともあろうか、とも思うのです。
同時に僕の知っていることをできるだけ記していくことも、彼が生きていた証を残すことにもなるのかもしれない。そう考えています。

いま耳許で彼が「え〜、それはダメなんじゃあ無いっすかぁ、浦嶋さぁ〜ん」と囁いているみたいだけれど…
書いちゃうけど、赦してね、まりのさん。